神話伝説その他

神話・伝説・昔話の研究・翻訳ブログ。日本・台湾・中国がメイン。たまに欧州。

台湾プユマ族

プユマ族 「ピナシキ社の起源」『番族慣習調査報告書』(分社・移住伝承)

ピナシキ社の起原

知本社始祖の孫カラムダンはマルアピットと夫婦となり、其間にパウニンという男児を得、マエダタル・サパヤン家の娘ルグルグの婿となりしが(夫婦の間にマルアピット(男)アルシアン(男)ティママン(女)アリワヌス(男)プッヒヤン(女)の五児を挙ぐ)、此パウニンは狩猟の都度、ラタラタイを通過せしに其地味頗る肥え耕地に適するを見て、畑を拓きたるに作物良く生長せしかば、漸漸耕地を拓き、遂に住家建築の必要に迫り、時の頭目ドゥアイに相談し、移住の可否を計り、其承認を得たれば、一家を挙げて移住したるを同地の開祖とす。

ピナシキは元来パシキシキの転化せしものにして、パシキシキは此地が緩斜面をなせるより、「上る」というを採りて附けたるものとす。ラタラタイは「ラタラタイ」樹多きより付けたる地名なり。

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今回もピナシキ社について。
やはり『慣習調査』と『系統所属』の伝承は異なっています。

「知本社出身の移住者が、卑南社から独立してピナシキ社を創始した」というのは同じなのですが。

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知本社出身の移住者=ピナシキ社開祖の名前は前回今回の二つの事例でも似ています。
『慣習調査』「パウニン」『系統所属』「Paonin」。

ただ『系統所属』「Paonin」が卑南社に移住したのは「知本卑南戦争」の仲介役をしていたからであって、卑南女性と結婚して婿入りしたからではありません。「Paonin」は卑南社移住後結婚しますが、その妻はタマラカオ社出身の「Luglug」という女性でした。

一方、卑南女性と結婚して知本から卑南へ婿入り移住したのは「Ingvil」でした。前回『系統所属』事例では妻の名は「Lungangan」。
その家名は、伝承中には記載がありませんでしたが、『系統所属』知本社系譜によると「Ingvil」が結婚したのはSapayan家の女性(名称不明)となっています。

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・・・これはひょっとすると、今回の『慣習調査』事例を語ったインフォーマントは「パウニン=Paonin」と「Ingvil」を混同?していた可能性がありますね。

『系統所属』
「paonin」=「タマラカオ社のLuglug」・・・戦争仲介のために移住
「Ingvil」=「Sapayan家のLungangan」・・・婿入り

『慣習調査』
「パウニン」=『Sapayan家のルグルグ』・・・婿入り

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分社の理由はやはり「優良な耕作地の開拓」ということになっています。

地名に関しては「(緩斜面を)上る」という単語が変化したとしていますが、確かにピナシキ社は卑南社から見ると山側へ少し入った場所にあります。
まあピナシキ社までなら実際にはそれほど「上っている」感覚はありませんが。

上述した以外の人名については『系統所属』系譜を見ても確認できませんでした。『系統所属』系譜はあくまで主要頭目家のみを記しているので。
また発音表記の差異も大きいですから、似た名前に見えてもそれだけでは確定できません。

「ラタラタイ樹」というのもオンライン辞典で調べては見ましたが、それらしい単語は見つけられませんでした。

プユマ族 「ピナシキ社の起源」『系統所属』(分社・移住伝承)

ピナシキ社(Pinasiki)

昔、知本社と卑南社とが争い、容易に和解せぬのでPaoninと云う知本社の者が蕃社を抜出て卑南社の入口にかくれていた。当時卑南社にRoaiと云う勢力者あり、誰か蕃社の入口にかくれていると聞き、会ってみるとPaoninは両社の和解を計りたいと述べた。そして彼は卑南社に久しく止り、両社間を斡旋し和解が成立し、Roaiの請を容れてPaoninは卑南社に居住することとなった。

当時タマラカオ社は卑南社に蕃租をおさめぬ為め、卑南社はLuglugと云う女を拉致して来たが、Paoninはこれと結婚し、次に狩りに出てピナシキの土地が豊沃なるを知り、Roaiの許しを得て此処に蕃社を建設した。
当時卑南社はMaedatarに集団して居り、西洋人が始めて当方面に来たよりも稍々後のことと云う。

尚、ピナシキ社成立後、知本社頭目のIngvilと云う男が卑南社総頭目Kaputayan(系譜第二六七第十代の総頭目)と友人になり、屡々Maedatarを訪れるうちにLunganganと云う女を知り、Kaputayanの世話でこれを娶り、Maedatarに一戸を構えた。

ところが、Ingvilがピナシキ社のPaoninはを訪れた留守に卑南社の者が悪戯して彼の家を焼いたので、Kaputayanの勧告もあり、遂にピナシキ社に行った。今日のピナシキ社はPaonin及びIngvil両夫婦の子孫が増加し、これに卑南社よりの移住者が混じっていると云う。

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ピナシキ社は現在の檳榔村。卑南社のすぐ隣にあります。
他社との位置関係のイメージはこんな感じでしょうか?知本カサヴァカンはこの範囲よりもだいぶ南です。

        パシカウ 
        バンキウ 
        アリパイ
  タマラカオ  ピナシキ
          卑南
大南  呂家

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通常ピナシキ社は「竹生系統」、つまり「プユマ社=卑南社」系統だと言われています。
『系統所属』の解説でも「言語習俗等、卑南社と同じ」としていますし、当時の頭目Gilauis-Longadanは卑南社総頭目Kuralaoの第四従兄弟だったそうで、その結びつきはやはり強い。

上掲事例の最後に「これに卑南社よりの移住者が混じっている」とあるので、ピナシキ社には卑南社出身者がいたことがわかります。

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しかし伝承内容を見るに、ピナシキ社の開祖となった「Paonin」自身は知本社出身ですし、妻「Luglug」はタマラカオ出身。
ピナシキ分社後、それに加わった「Ingvil」も元は知本頭目と、血統的には完全に「卑南社以外の人々」によって構成されています。

つまり、初期のピナシキ社は知本系統の人々によって運営されていたはずですが、それが後に卑南社からの移住者が混入してきて「卑南系統」になり、「言語習俗等、卑南社と同じ」というほど卑南社への傾倒が強まっているということになります。

「Paonin」も「Ingvil」も元は知本系統ですが、移住に当って卑南社に世話になったので、自分の出自がある知本社の文化を捨て、卑南社に乗り換えてしまった、ということでしょうか?

それとも時代の趨勢的に、「知本より卑南の方が栄えているから、卑南化しよう」ということだったのでしょうか?
それはそれで戦略的思考で面白いですが。

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『系統所属』によると、「Ingvil」については知本社でも、卑南社へ聟入りした事が伝わっていたそうです。「Ingvilの子Patokalが知本社に戻ってマヴァリウ頭目家を創めたという伝承がある」とも。
知本・卑南両方に歴史伝承があるということは実在性はかなり高いですね。

卑南頭目Kaputayanについてはこのブログでも取り上げたことがありました。やはり歴史的にも重要な頭目の一人だったのだと思います。




プユマ族 「バンキウ・アリパイ社の起源」『系統所属』『番族慣習調査報告書』(移住・分社伝承)

『系統所属』

バンキウ(Vankiu)社及びアリパイ(Halipai)社

・呂家社によると両社は呂家社の分派。成立はパシカオ社より後。
・パンキウ社頭目によると、アリパイ社は元は呂家社の耕作小屋であったものが独立したもの。パンキウ社はそこから更に分かれたものという。

・パンキウ社頭目家はマリドップ社Mavariu頭目家から分れたものというが、始めは二戸だけに過ぎず、それがパシカウ社の一部と共にPinataraiという場所に分社した。
・パングツアハ族の移住者もいるが、目が細い者はパングツアハ族の子孫だという。

・パンキウ・アリパイ両社の一部(十戸)は昭和二年パシカオ社に移住し、その他のものは鹿野・大原・月野・老巴老巴などに散在している。アリパイ社はわずかに残っている。

『番族慣習調査報告書』

〇アリパイ社の起原
呂家社民は子孫繁殖すると共に其一帯の地域を開拓し尽くして、漸次社外に進めしが、アリパイの地に初めて畑を耕せしは呂家社民サリヤウなるが、妻女の名明かならず。サリヤウ以後屡々呂家社民の住移するありて、遂に一社をなすに至れり。

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バンキウ社とアリパイ社。
バンキウ社は「斑鳩」或は「班鳩」、アリパイ社は「阿里排」「阿里擺」と漢字表記されています。

位置は北「パシカウ社=初鹿」と南「プユマ社=卑南社」の間。
台東県の観光ルートで言うところの所謂「山線」、或は「花東縦谷ルート」(台東市-卑南-初鹿-鹿野-関山-池上)上にあるので、旅行に行くとよく通過する場所ですが、途中下車したことはありません。

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ともに呂家社から分れたとのことで、『系統所属』では断片的な情報を整理して紹介しているだけです。
アリパイ社の方が先に呂家社より分離し、そこから更にバンキウ社が分社したとしています。

アリパイ社については『番族慣習調査報告書』に起源伝承が紹介されていますが、普通に移住?分社?の過程を説明しているだけです。
呂家社が発展し付近を開拓する中で、社民サリヤウが今のアリパイ社の地を開拓。それ以後呂家社から続々と人が移って来たので一社として独立した、という内容。

これは『系統所属』が言っている「アリパイ社は元は呂家社の耕作小屋であったものが独立したもの」という説明とも矛盾しませんね。
「耕作小屋から一集落になった」というと極端な感じもしますが、少しずつ居住環境を整えて、人口も増えて行ったということでしょう。

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バンキウ社については、アリパイ社から分れたとは言うものの、その頭目家は「パンキウ社頭目家はマリドップ社Mavariu頭目家から分れたもの」としています。

この辺、何やら複雑な成立過程をしているようです。『系統所属』を何となく要約すると以下の通り。
1.パシカオ社の一部が分社。
2.「1」にマリドップ社マヴァリウ頭目家系統の二戸の家が合流。
3.後にアリパイ社が呂家社から独立。
4.「2」の集団とアリパイ社から独立した一部が合流し、バンキウ社が成立。

しかし現状ではバンキウ社の多くの家はパシカオ社に吸収された状態になっているようで、独立した集落を形成しているわけではないようです。残っているのは地名だけ。
アリパイ社はまだあるようです。

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『系統所属』によるとバンキウ社では「パングツアハ族(アミ族)の移住者もいるが、目が細い者はパングツアハ族の子孫だ」と言われていたそうです。

プユマ族はアミ族を下に見る傾向が強いですから、「目が細い」というのもある種の悪口である可能性が高いです。
しかし台湾原住民全体として「目が大きく、ぱっちりしている」イメージが強いので、「実際に目が細い」という意味なのか?それとも「目を細めるような表情を良くしている」的な慣用句的意味で言っているのか?よくわかりません。

また上述した、マリドップ社から移住して来た人々については「身長が高く、耳朶は大きく前を向いていた」と伝えられていたそうです。
ちょっと「儒教的聖人像」に近いイメージですが、プユマ族的には良い意味なのか?悪い意味なのか?よくわかりません。

プユマ族 「タマラカオ社の起源」『番族慣習調査報告書』(移住伝承)

タパラカウ社の開祖
大南社の農民ムリクダウは狩猟のため社の北方に赴く毎にアプタル(本島人たる女)に邂逅せしが、遂に情を通じて夫婦となり。始めタパラカウの西方渓谷タグラソンと称する山麓に茅屋を結び、仮りの住居と定めたり。

然るに或る時、卑南社のトゥパ及ソルギアンの両人、山に登り、帰途彼の渓谷より炊煙の昇るを見、始めて人家の在ることを知り、従者サルアシをして見せしめたるに、ムリクダウ夫婦の住家なるを発見したり。

其後ムリクダウ夫婦は開墾耕作に適する地を索めしとき、トゥパはサルアシに旨を含め、山麓は危険なれば、広濶する処に出で開墾すべきことを許し、併て其開拓の地名をアリヤスダイと付すべきを命じたり。ムリクダウ夫婦は遂に現今のタパラカウに移住し、開拓の祖となりたるものなるが、何時の頃より現地名に変更せしか明かならず。

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「タマラカオ」と「タパラカウ」。「マ」と「パ」ではだいぶ発音が違う気もしますが、共に両唇音なので誤差の範囲内か?或いは伝承採集地が異なるか?

ここ最近続けて取り上げているプユマ族の蕃社起源伝承群の中で、『番族慣習調査報告書』の諸事例は卑南社のインフォーマントによるものではないか?というのは何度も指摘してきました。今回もしっかり卑南社の人物が登場し、卑南社との関係性を中心とした内容になっていると言えるでしょう。

前回紹介した諸伝承で言及されていたタマラカオ社と呂家社については全く無視されているのがわかります。

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しかしこの事例でも、タマラカオ社の始祖は大南社出身ということになっています。
「農民ムリクダウ」とありますが、ここで「農民」と訳しているのは平民ということだろうと思います。

そのムリクダウは「本島人たる女」アプタルと結婚しています。ここでいう「本島人」は「漢人」のことだと思いますが、「漢人の女と夫婦になったので追放された」とかそういう意味合いもあるのでしょうか?

大南社を出たムリクダウ夫婦の住み家を、「卑南社のトゥパ及ソルギアン」が発見し、後に彼等の移住を促して助けたといいます。

以前上げたカサヴァカン社起源伝承『番族慣習調査報告書』ヴァージョンも似たような内容でした。知本社から分社しようとしている夫婦の移住を支援していました。



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卑南社=プユマ社はその勢力の大きさから、「プユマ族」という民族名称にもその名が用いられているほどですが、他のプユマ族諸社と一部の東部パイワン族諸社からはその異質性「来歴の不明」を指摘されてもいます。

通常「知本系統=石生系」「卑南系統=竹生系」と言われていますが、『系統所属』は「卑南社始祖は竹生ではなく、その来歴はわからない」としている幾つかの伝承事例を紹介して、「確かに卑南社だけ移住経路が異なっている」と疑問を呈しています。

その真相はわかりません。卑南社自体も結構複雑な成立過程をしていたというのは、このブログでも見てきたことですから簡単には答えは出ません。

しかし他のプユマ族諸社と比べて後発の勢力だったのだということはあり得ると思います。
そしてその後発の卑南社が勢力を拡大していく過程で「他社内の独立志向主義者を支援し、分裂を促した」というのは戦略としてありそうなことのようにも思います。

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話をタマラカオ社に戻しまして。

前回「タマラカオ社は現在はプユマ族であるが、その始祖或は初期社民はルカイ族諸社からの移住者だった」とまとめました。
そして今回の伝承を見ても、やはりその可能性はかなり高いように思われます。
つまり「血縁をたどる民族系統はルカイ族であるが、今の文化習俗はプユマ的だからプユマ族」ということですね。

似た現象は東部・南部パイワン族にも見られます。
「血縁による民族系統はプユマ族であるが、文化的にはパイワン族化している」という部落が沢山ある。

台湾北部の原住民はどうか?気になりますね。

プユマ族 「タマラカオ社の起源」『系統所属』(石生始祖・洪水・感精神話(檳榔)・母子相姦)

タマラカオ社の由来
太古Ruvoahan(Panapanayan)の石からViviと云う男、Ta'taと云う女が生れ、これが結婚してTinuvugan、Palaorの兄妹生る。この兄妹も亦結婚した。

次にRuvoahanから大南社(Taromah)に移ったが、突然海水が押しよせ、Kindoporの山で樹につかまってTanapanと云う女一人助かる。天から檳榔実が落ち、それを噛むとこの女が孕み、男児生れ、他に配偶者がいないので母子結婚し、それから人間がふえた。

その後、人々はKindoporを下って大南社に来たが、タマラカオ社の祖先のみは更に大南社を出発し適当な居住地を求めて呂家に来た。すると呂家社では一緒に住むがよいと云ったけれども、これも止めてToratorao(呂家とタマラカオ社との中間にある山脚地)に先ず居住し、次に段々と蕃社の位置が移って今の地に住むこととなった。

尚、Toratoraoに来る以前、呂家社の下方、Vorasiyan(Vorasiyau)に一時居たことがあり、このときから呂家社との接触、混淆行われ、現在では全く同社と言語習俗等を同じくする様になっている。当社は卑南社総頭目Ra'ra'家の支配を受け、毎年収穫後米や餅を同家におさめていた。この外、呂家社にも何故か同様に蕃租をおさめていた。当地は元来呂家社の土地とも云う。

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タマラカオ社(Tamalakao)は現代の「泰安」部落。「大巴六九」という表記もあります。
位置は呂家=利嘉社の北。現在呂家は大南社のすぐ東にあります。

『系統所属』の伝承が採集された戦前と現代の部落の位置が完全に同じかどうかは確認する必要がありますが、今回の事例に登場する三社が現在でもごく近くにあるということはおさえておいた方がよいでしょう。

因みに卑南社も近いです。とてもざっくり示すと↓のような位置関係。

   タマラカオ
          卑南社
大南社 呂家社

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『系統所属』は「タマラカオ社は元は大南社の分派であり、後にパナパナヤン化=プユマ化したか?」としています。
確かにそこに紹介されている呂家社に伝わる伝承は、このタマラカオ社を「屏東ルカイ族のタマラカオ社から移住して来た三戸の者が独立して建てた」としています。

一方、大南社の伝承によると「タマラカオ社は大南社La-varius家から分れた」としています。大南社系譜では第九代目に当る時期、と時系列まで明確に伝わっている。

更にパンキウ・パシカオ両社の伝承によると「タマラカオ社に最初に来たのはKinadawan(ルカイ族下三社蕃トナ社)の者である」とのこと。呂家社の者が狩猟に出て彼等に会い、移住を勧めたとも。
また「その後、同社には大南社の者が移り、また呂家パシカオ両社からこれに混入したものもある」ともいい、大南社・呂家社の主張とも矛盾しない内容のようにも思えます。
『系統所属』解説によると「トナ社には「La-putoan」という頭目家があるが、タマラカオ社カロマハンには「Putoan」という名称のものがある」とも言い、トナ社との関係性もかなりしっかりありそうです。

『系統所属』は「恐らく当社は雑多な分子の混淆によって成立せるものであり、從ってその成立由来について種々の相異る口碑が語られているのであろう」「それぞれの起源伝承で言われている故地、大南社・タマラカオ社・トナ社は全てルカイ族であり、それが後に呂家社などとの交流によってプユマ化したか?」としていますが、異論をはさむ余地はないですね。

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『系統所属』の解説も既に指摘していますが、神話の内容は二つの伝承が結合しているように見えます。
知本・カサヴァカン・呂家社の発祥起源神話である「Ruvoahanでの石生」モチーフ。
大南社起源神話である「洪水」「天の檳榔による感精妊娠」モチーフ。

しかし確認すべきは、「Ruvoahanでの石生」を先に語り、後に「洪水でKindopor山へ避難」を語っていることです。
つまり他社の伝承では皆が「タマラカオ社はルカイ族起源(大南社・タマラカオ社・トナ社)」としているのに対して、タマラカオ社自身は知本・カサヴァカン・呂家と同じく「Ruvoahanでの石生」したとしているのです。

以前も書いたように、台東地域において大南社は歴史も古く、近隣諸社からは軍事力も強いとされる有力社です。
色々な系統が混在しているにしても、ルカイ系統が多そうなタマラカオ社がなぜ自身を「大南社に近い集団」と位置付けないのか?ちょっと気になります。

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またもう一つ気になるのは「檳榔感精」によって生まれた男子が、母子相姦を行っている点です。

大南社の起源伝承によると、檳榔感精によって生まれた「シマラライ」は普通に妻を得て結婚していますから、「母子相姦」モチーフは他から来た可能性が高いです。



以前呂家社の伝承で、「ピナルピハンの話」というのを取りあげたことがあります。洪水でキントポル山に逃げのびた女が一人で男子を生み、その男子と母子相姦を行ったという話。



「ピナルピハンの話」に「檳榔感精」モチーフはありませんが、近い伝承だと言えると思います。

プユマ族 「カサヴァカン社の起源」『番族慣習調査報告書』(移住伝承・社名の由来)

「カサバカン(射馬簡)社の起原」

知本社始祖の玄孫ソラガドはトコ(女)と結婚せしが、屡々ディナプル及サパサパクに赴き、其地の開拓すべきを見て、知本社に帰り、該地の何人に属するやを質せしに、当時のマテダタル社頭目アリパトの所領にして、之が開墾に就ては、彼の許可を得る必要あることを聞きたるに、某日頭目アリパト、知本社に来遊せしかば、妻トコはアリパトに向い、知本社より彼地に分離移住せんと欲する旨を語りしにアリパトはディナプル、サパサパクは共に我所領なれば、何れとも汝の好む処に住みて可なりとの許可を得、茲に於てソラガド夫妻は希望の如く、サパサパクに移住し同地を開拓せり。

是れ、現射馬簡社の起原にして、サパサパクは深き地(谷)の意にして、地形を取り、人々の呼びなせるもの、遂に社名となりたるものなり。

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今回は『番族慣習調査報告書』からですが、どうもこの『慣習調査』のプユマ族各社起源伝承は全て「マテダタル社」、つまり今のプユマ社(=卑南社、南王社)に取材したかのような書かれ方をしています。基本的に「マテダタル社」との関係を語り込んでいる。

そのため、前回『系統所属』の記事で見たような、原初の「石生」モチーフや「鹿娘婚姻譚」「蝦の襲来」などの、神秘的というか神話的な内容は省かれてしまっています。
あくまでも語り手にとっての「カサバカン(射馬簡)社の起原」です。

ただ実際のところ「マテダタル社」の人間が語ったものかは定かではありません。
「マテダタル社頭目アリパト」とありますが、『系統所属』の系譜では確認できないからです。「アリヴァト」という近い名前はありますが、頭目ではないようですし。
「知本社始祖の玄孫ソラガドと妻トコ」もざっと見た限りでは確認できず。

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今回の事例では「カサバカン(射馬簡)社」は「知本社ソラガドと妻トコ」が開いたことになっています。

前回の事例や呂家社の事例でも見たように、知本・カサヴァカン・呂家の三社の祖はともに「ルヴァカン(パナパナヤン)」において「石生」によって生まれたとされています。
正確に言えば、原初に石から生れた人がいて、その後分れて各社の祖になったわけですが、大まかに言えば「同系統」。

しかし今回事例ではあからさまに「カサヴァカンは知本社から分れた集団」ということになっています。当のカサヴァカンの人々がこれを聞いてどういう反応をするかは気になりますね。

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ソラガド夫婦は「ディナプル及サパサパク」の土地が良いので、その所有者であった「マテダタル社頭目アリパト」に開墾の許可を得て、「サパサパク」に移住したと言います。

まず「マテダタル社」が多くの土地を所有しており、その頭目アリパトが気前よく他社に人間にその使用を許可しているというのがわかります。
またその「サパサパク」が「カサヴァカン」という社名の由来であるとも。

社名由来については、前回事例では以下のように述べられていました。
「第十六代KarimalaoはPapudainからKarukalanに行って知本社と一緒に住むこととなった。これは知本社の祖先達の勧誘によるもので、当時彼等はKarukalanに居り、射馬干社の祖先はそれより稍々低い(sava-savak)所に部落を作ったので、この時から蕃社名をKasavakan(Ka-savak-an)と呼ぶ様になったのである。また、知本社はその後Karukalanの山から段々低い所に下り、射馬干社と部落が並ぶ(Korpatipol)様になったのでKatipolなる蕃社名を生じた」

「カサヴァカン」の由来が「サパサパク」=「sava-savak」であるというのは、共通していると見て良いでしょう。

つまり「地名の由来は同じでありながら、その土地に移住した理由は異なっている」ということです。
前回事例はあくまでも知本社と対等な関係の中で移住をしており、かつ知本=「Katipol」よりもその名称起源が早く起っているとしています。

しかし今回事例では知本社の夫婦が「マテダタル社」=プユマ社頭目に頼って土地を譲ってもらって移住しているのです。
今回の内容では明確ではありませんが、カサヴァカン社はプユマ社に納税していた可能性がありますね。この事例はその由来譚という位置付けの伝承だったのかもしれませんね。

また前回今回は共にカサヴァカン社の起源を語る伝承なのですが、その基点のずれがだいぶ大きいということがわかります。
前回伝承が「始祖の石生」つまり原初世界まで遡って自社の起源としているのに対して、今回の伝承は本当に現実的にそのカサヴァカン社の成立、「移住」と「名称の起り」を起源としています。
やはり語り手の立場の違いによるものだとしか思えない差異がありますね。



『系統所属』の「sava-savak」が「稍々低い」と解釈されているのに対して、今回事例では「深き地(谷)」とされているのが気になったので、オンライン辞典で引いてみました。

「asabasabak」で「窪地」の意味があるようですから、解釈としては今回事例に近いようです。

プユマ族 「カサヴァカン社の起源」『系統所属』(石生始祖・鹿婿伝承・蝦の襲来・部落名の由来・パイワン族との関係)

太古Ruvoahanの石からSamuraroと云う男及びTa’taと云う女生れ、これが結婚してMinimini、Ruviruviの姉妹生る。Miniminiはパナパナヤン族の祖、Ruviruviはバングツアハ族の祖である。但し卑南社の祖は同地の竹から別に生れた。大南社も別のもので、これは更に古くからKindopor(Kindoor)に居た。パイワン族は大武山の方から来たもので、これも我々とは祖先を異にする。

Miniminiから数代を経てToko、Shihashiauの姉弟あり、Ruvoahanからその上方のHadawayanに移った。当時は人間も沢山になっていたと云う。この姉弟が頭目系であるが。人々はTokoの方を好み、Shihashiauの配下が少なくなった。そこで彼はTokoに反感をもつ様になったので、Tokoは配下を連れて太麻里に近い羅打結社上方のAruno(知本社口碑のArarunoか)に移る。ところが、Shihashiauの鯨をとってその肉をTokoの配下に食わせ、その為め三十人ばかり死んだ。

それで、Tokoは更に太麻里の西、Lagalunの南、Toharanomと云う地に移る。その頃Tokoの配下が太麻里渓上流のKarapayanに狩りし、そこの土を木葉に包んで持帰り、Tokoに見せたところ、よい土であったのでそこに移った。TokoはKarapayanでパダイン社のMurasを聟に迎えた。Tokoにはこれより以前にIvodiauと云う夫があったが、彼はToharanomで死んで居り、Murasは第二回目の夫となるのである。

次にカアロアンに移ったところMurasが死んだので、その地を不吉としてSariarian(知本屏東道路、深山駐在所の稍々西方)に移り、Tokoはここで死す。

Sariarianには鹿が多く、畑を荒すので、Tokoから第四代目のRawarawaiは娘Samirikanに命じて畑の番をさせたところ、娘は鹿と情を通じ、作物の被害は止まなかった。Rawarawaiは娘の情事を知らずにその鹿を殺し、Samirikanはそれを悲しんで自殺したから、この地を不吉として第五代目のRanao(Samirikanの妹)は配下をつれて、その下方のToavudoに移る。

併し此処では蝦の大群に襲われ、稍々東方のRominganに住むこととなったが、その後第九代目Muliurの時代にはぶとの大群に悩まされ、更にRominganを引上げてRovarovanganに移った。次に第十四代のTumurusaiはRovarovanganからPapudainに、第十六代KarimalaoはPapudainからKarukalanに行って知本社と一緒に住むこととなった。

これは知本社の祖先達の勧誘によるもので、当時彼等はKarukalanに居り、射馬干社の祖先はそれより稍々低い(sava-savak)所に部落を作ったので、この時から蕃社名をKasavakan(Ka-savak-an)と呼ぶ様になったのである。また、知本社はその後Karukalanの山から段々低い所に下り、射馬干社と部落が並ぶ(Korpatipol)様になったのでKatipolなる蕃社名を生じた。

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プユマ族カサヴァカン社は漢字表記では「射馬干社」。現在は「建和」。
伝承中でも知本社の近くに落ちついたとありますが、現在でも知本社のすぐ近く。カサヴァカン社の方が北側の高台あり、知本は海に近い方、という感じ。歩いて行けます。

内容は知本社パカロコ家のものに近いですが、パカロコ家自体がカサヴァカン社と元々同系統で、途中分かれて知本に入ったからです。



また以前上げた「カテポル社の起源」も同じ系統の話でした。やはりカサヴァカン社の祖「トコ」が登場します。



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知本社パカロコ家の事例と今回のカサヴァカン社の事例で大きく異なるのは、トコに対する評価です。
パカロコ家事例ではトコは「好色だった」と言われています。

男性の場合は「英雄色を好む」とか、「王の性的な旺盛さはその力、神聖性の表れである」などとされ、マイナスと評価されることは少ないと思いますが、トコは女性。
・・・しかし元々女系傾向が強かったと言われるプユマ族において「女性が好色」というのはどうなのか?「皆に嫌われ」とあるので、イメージが良くなかったのは確かのようですが。

一方今回の事例はトコが好色だったなどとは伝えておらず、「弟よりも人気があったので、弟に妬まれて部下を殺され、袂を分かった」としています。

そもそも「好色」とはプユマ族ではどういう状態の事を言うのか?それもわかりません。
同時に何人もの異性と交際していたなら我々の感覚でも「好色」でしょう。しかし「配偶者以外に愛人一人」なら、現代では不道徳でも前近代の王侯貴族・武将などでは普通な気もします。逆にもっと厳しい性観念をもった文化なら「生涯一人の配偶者しか認めない」という可能性もあるでしょう。

トコは「Ivodiau」という夫と死別し、「パダイン社のMuras」と再婚したと言いますが、これ自体は問題なかったのかどうか?要確認ですね。

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トコの二人目の夫は「パダイン社のMuras」という人物だったそうですが、パダイン社はパイワン族の部落です。

今回の事例の引用元である『系統所属』によると、このトコと「パダイン社のMuras」の結婚は、西部パイワン族の人々が東部に移住するきっかけになったという伝承もあるそうです。パオモリ社頭目家La-luruman家の始祖Camarの伝承でも同様の移住経路を伝えているとか。

また『系統所属』によると、カサヴァカン社はパイワン族と同じく、「男女を問わない長子相続」を行っていたようです。
そう言えば、カサヴァカン社には本来パイワン族の儀礼であるはずの「ブランコ儀礼」もあるようです。・・・てっきり大南社の影響かと思っていましたが、トコ・Murasの時代から続くパイワン族の伝統であった可能性もありますね。

「男女を問わない長子相続」については、ただの伝統というだけではなく、知本社との関係性から意図的に選択された可能性もあるかもしれません。
カサヴァカン社の始祖「トコ」は姉で、知本社の始祖「シハシハウ」は弟ですが、パイワン族的な兄弟関係で見ると、自ずと姉の方が格は上になります。

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「鯨肉を食わせる」モチーフが登場しています。
上記知本社パカロコ家の事例ではシハシハウがトコに鯨肉を食わせ、トコは「酔った」としています。しかし今回の事例では、鯨肉を食べたことによってトコの部下が30人も死んでいます。
「鯨肉」は毒物だと認識されていたのでしょうか?一般的には食べられていなかったのか?
要確認です。

カサヴァカン社の「鹿娘婚姻譚」については以前まとめました。
単に「鹿が多くて農作物を荒らされたので、移住した」ということでも問題はないと思いますが、そこに「鹿娘婚姻譚」が入り込んでくるというのは興味深いところです。琉璃珠の由来譚だからか?



その他移住の理由としては「蝦の大群の来襲」と「ブトの大群」が言われています。
後者「ブト」とは「ブヨ」で、蚊と同じく血を吸います。台湾では普通に感染症を媒介するでしょうから、現実的に考えても十分移住の理由になりえます。

しかし「蝦の大群が来襲した」というのは、パイワン族の伝承でも良く語られるモチーフですが、意味は良くわかりません。
その「蝦」、他の事例では「巨大な蝦」と言われていたこともあったと思いますが、なぜ「蝦」なのか?「大群」とはどのぐらいの規模なのか?蝦が大群でやって来て、村を破壊する?というのでしょうか?ちょっとイメージがつかめません。
これについては翻訳のレベルから確認する必要があるかもしれません。

プユマ族 「パシカウ社の起源」『番族慣習調査報告書』(他者の語る起源伝承)

マエダタルの社民トゥパ及ソルギアンの両人、或日ソルギアンの畑に行きたるに、人の足跡縦横にあり、ソルギアンは翌日畑に於て、再び之を見、トゥパに語りて共に足跡を追い、西行してパナマナウ山(守備隊用水水源地左方の山)を前方に見たる時、山上に火を放ちし者あり。

此者こそ足跡の主ならむと追い行きしが、遂に姿を見失い、引返さんとせし処へ、大南社民ドゥマギラウの帰社するに逢いぬ。ドゥマギラウは何事の起りしやを尋ね、二人は事の始末を告げしに、开は多分ピルンに住へる我が友タエルならむ、御身等の為め、此処迄誘い来るべければ、暫し待ち合わすべしと、引返せり。

二人は柿の実など出し中食してありしに、ドゥマギラウはタエルの宅に到り、御身を待てる人あれば、吾と共に行きて話し玉えという。タエル答えて、今最も瘠せたる犬を殺して彼等に与えん、というに、ドゥマギラウは彼に殺気あることを知り、直に帰りて、二人に伝え、之より共に帰るべしとホラポランより山稜を伝い、タグラソンの上に到りて、曰う様、拙者は之より大南社に帰るべく、御身等二人は之より東に降り玉え、とて左右に別れぬ。(トゥパ、ソルギアンが「タパラカウ」社の開祖ムリクダウの住家を発見せしは此の降り道の時なり)

トゥパ、ソルギアン両人は無事帰宅せしが、大南社ドゥマギラウは翌日タエルを其宅に訪問し、此山の南麓は地味良く且つ平坦にして広ければ、其処に移住すべきを勧め、タエル夫妻をして南方山麓に移住せしめ、此由トゥパ、ソルギアンに告げたれば、両人は直にタエルを訪いしに、甘藷の蔓、樹上に這い登れるを見、何故なれば斯くなるやを尋ねしに、タエルは如何にすべきかを知らずと答う。両人は之を樹より引き下ろし、地中に伏せ示し、数日の後再び行きて、其実を引き出し、己の先ず食して、後ちタエルに試ましめたるに、其味甚だ美なりしかば、タエル之れより甘藷を作るに至りしという。

タエル夫妻は高山番にあらず、又アミス番にもあらずして、岩窟に住みて、ガン(「ピキピキウ」)のみを食したりという。後ち又た此山麓より平地に移住せしめ、其地をムリプクと命ぜしが、之れ北方の山風を防ぎて、甚だ温暖なるによるという。パシカウと命ぜしは、本島人にして何故斯く名付けしか、今明らかならず。此社民もマエダタル社より、籾、粟の種を得て一切の行事を同社に倣いしという。

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今回はパシカウ社起源伝承のヴァリアント。
『慣習調査報告書』のプユマ族伝承はどうも全て?卑南社=プユマ社で調査したもののようで、最後の部分にはほぼ必ず「マエダタル社」との関係性を語っています。「マエダタル」はプユマ社の旧地です。

他者によって語られた起源伝承ですから、注意すべき点もあります。見下したり、悪く言ったりすることもあるでしょう。
しかしわざわざ他人の起源に口を出すというのは、密接な繋がりや関心がある証拠であるとも言えますから、資料としての価値は十分にあります。

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要旨がわかりにくいのでまとめます。

1マエダタル社民の「トゥパ」「ソルギアン」の畑に足跡があり、それを追って西へ行ってパナマナウ山を見ると山に火をかけている人がいる。
2山へ行ったが既に人影はなく、帰りがけに大南社民「ドゥマギラウ」にあう。事情を話すと「ドゥマギラウ」はその足跡の主は友人「タエル」だろうといい、連れてくると言う。
3「ドゥマギラウ」は「タエル」の家に行き、「トゥパ」「ソルギアン」二人の話を伝えたが、「タエル」の反応に殺気を感じたので、「トゥパ」「ソルギアン」にそう伝え、途中まで送って、自身は大南社へ帰る。
4「ドゥマギラウ」は翌日再び「タエル」を訪ね、山の南麓に移住するよう勧める。更に「トゥパ」「ソルギアン」にそれを伝えると、二人は「タエル」夫婦の移住先を訪ねる。「トゥパ」「ソルギアン」は「タエル」に甘藷の育て方を教える。
5「タエル」夫婦は高山番ではなく、アミ族でもない。元は岩窟に住んで「ガン(ピキピキウ)だけを食べていた。山の南麓に移住したため北風が吹かず温暖なので、そこを「ムリプク」と命名した。社名「パシカウ」は原義不明。マエダタル社より籾、粟種を得て、祭祀もマエダタル社に倣う。

登場人物は5人。
マエダタル社の「トゥパ」「ソルギアン」、大南社の「ドゥマギラウ」、そして岩窟に住んでいた「タエル」夫婦。

話の結論としては確かにパシカウ社の起源譚と言えますが、「マエダタル社の二人がタエルを見出した」という内容になっているので、やはりマエダタル社側=プユマ社側の伝承だと考えるべきでしょう。

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前回の「パシカウ社の起源」事例と比較。

・タエル=タイル。前事例では「大南社から来た」とされているが、今事例では不明。大南社民「ドゥマギラウ」と友人関係とは言うが、大南社に住んでいるわけではなく、「岩窟」に住んでいたという。

・タエル=タイルが妻を見つけて結婚する件は語られていないので、その妻が「石生女」かどうかは不明。

・「ピキピキ鳥のみを食べる」モチーフは共有。しかしタエル=タイルの来歴が不明であるため、「石生女」だけでなくタエルもピキピキ鳥だけを食べていたことになっている。

今回の事例のみで語られている部分は以下の要素でしょうか。

・タエルが「トゥパ」「ソルギアン」の農地に来た目的は明確に語られていないが、二人が後を追っていることを考えると、作物を盗んだか?

・タエル夫婦が甘藷の育て方食べ方を知らないのは、「ピキピキ鳥のみ食べていた」というモチーフと同じく、彼等が文化を知らなかった、「未開の状態」だったことを意味している。

・大南社民「ドゥマギラウ」の特殊性。マエダタル社の二人とタエルを和解させようとして動いているのは理解できる。

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最終段に「パシカウ社の始祖である「タエル夫婦」は「高山番」でも「アミス番」でもない」とあります。ここで言う「高山番」は恐らくルカイ族のことでしょう。

前回事例ではタエルはルカイ族大南社から来たと明確に言っていましたが、今回の事例ではそうではないとしています。ただ大南社と全く関係ないとはせず、タエルは大南社のドゥマギラウと友人関係であり、その仲介でマエダタル社=卑南社と関係を持つようになった、としています。

前回事例でも「竹から生れたもの」=卑南社系統の流入は語られていました。しかし社民の起源は大南社にもあるとされていました。
それが今回の事例では、社民の起源たる「タエル」夫婦の来歴は不明、しかし薯作=文化を伝えたのは明確にマエダタル=卑南社であるとしています。

パシカウ社の起源に大南社と卑南社が関わっていることは前回事例も今事例も同じなのですが、その「影響の比率」が微妙に異なっているわけですね。



因みに大南社で語られている「パシカウ社の起源」はまた異なっているようです。

『系統所属』が採録している事例によると、大南社では「大南社とパシカウ社は同祖で、古代に分かれた集団。芋作を伝えたのも大南社のカリマラオ」としているそうです。

パシカウ社自身による「パシカウ社の起源」。
卑南社による「パシカウ社の起源」。
大南社による「パシカウ社の起源」。

それぞれ内容に食い違いがありますが、共通しているのは「パシカウ社は昔農耕を知らず、ピキピキ鳥だけ食べていた」というモチーフ。
それが「農耕を知らない、文化レベルの低い部落だった」という意図で語られているのは明らかですが、なぜ「ピキピキ鳥という特定の鳥だけを食べる」と言われるのか?

何か別の意味があるような気もしますが、わかりません。
今回の事例では「ガン(ピキピキ鳥)」としているのですが、「ガン」とは「雁」でいいのでしょうか?「雁」なら日本では水鳥・渡り鳥というイメージが強そうですが、台湾ではどうでしょうね?

プユマ族 「パシカウ社の起源」『蕃族調査報告書』(石生・頭髪で体を隠す・蜂が人を守る)

パシカウ社の口碑

昔マリケン、マウラスの姉妹二人、石の中より出で、暫くは「ピキピキ」鳥のみ取りて生活せり。

偶々大南社のキントボルより来りて、ニネタに住める。タイルと称する者、出猟の途中、彼等両人に遇えり。其時両人は裸体にて、頭髪を股間に挿みて居たれば、タイルも打ち驚き、何物ならんと近づき、槍を構えしに多くの蜂飛び来りて彼等を守りたり。之は不思議なりと思いつつ、側に寄りてよく見れば、二人の女なり。早速夫婦の交を結びて、ラパラパ社を建てたり。

其時パナパナヤンの竹の中より産れたるスルトク、モラノク、モアリプの三名、テキテキルより来りて、同じくラパラパ社に住みたれば、ラパラパ社は一時に大社となれり。依りてモアリプを頭に戴きて社事を司らしめ、他は其部下となりて、狩猟の度毎に肉を贈り、又、一年一回の粟刈の時には其幾分を納めて其労を謝しぬ。

其後サマルの代に至り、人口増殖したれば、ラパラパより移りて、ブリブリボツクに来りぬ。斯くて居ること数年、或時若者等内文鹿方面に赴き、其社の女を姦して殺害せられたれば、不吉なりとて社人の多くはトカイシンに移り、其よりピナリキに転じしものもあり。

斯くて人口の繁殖と共に各々別れて、イナバラ、ダナダナウ、スモニ、ブヌ、パハリワン、ピナタライ、アリアリアイ、ワカワカイ等に離散せり。而してパンキウは同じく卑南族なれども昔より独立せる社にして我等と祖先同じからず。

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パシカウ社の現在の中国語名称は「初鹿部落」。
近くの初鹿牧場や植物園には行ったことがあります。台東市内からの距離は近いですが、結構山の中。

また知本・卑南というプユマ族二大部落との距離感で言うと、起源神話としては「石生」なので知本系統ですが、現在地は明らかに卑南社に近い。

今回の事例内容を見てもパシカウ社自体の起源は「石生女」と「大南社の男」ですが、頭目は「竹生」系統=卑南社系統の者が担っているということになっていますね。

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石から生れたのは二人の女ということになっていますが、「ピキピキ鳥」なる鳥だけを食用としていたと言います。
オンライン辞典で「piki」「biki」「viki」等引いてみましたがヒットせず。女二人でも容易につかまえることができる鳥なのだと思いますが。

またその石生女二人について、「裸体で頭髪を股に挟んでいた」というモチーフがあります。
普通に考えると「頭髪で体を隠していた」ということでしょう。衣服がまだない、「原初の女」であることを示しているはずです。

この「原初の女が二人いる」モチーフは大南社にもありましたが、あちらは母娘でした。
今回は姉妹ですが、なぜ「二人」なのか?
「原初の女」が二人いれば一応同世代の兄妹婚・姉弟婚は避けられますが。

「蜂が女を守っていた」というのも興味深いモチーフ。
台湾原住民の神話伝説における「蜂」。ぱっと思いつくのは「大陽根」伝承で「陽根に刺さった刺が変化した蜂」と「女人村の女が操る蜂」という二種でしょうか?
今回関係ありそうなのは当然後者。

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「恐ろしい敵対者」と「原初の女=部落の始祖」が共通の性質を持っているというのは、不思議と言えば不思議。

しかしそれは、知本社起源伝承で登場した「両面膝目の人」にも近いことは言えそうな気がします。
「両面膝目」モチーフは「敵対者」ですらない、プユマ族が奴隷化し普通に見下していたアミ族に対するイメージでもありました。それが「石」から生れた「原初の始祖」の姿でもあったという。

「敵対者」や「異民族」を奇妙な姿を持ったイメージで想像するというのは、良くあることだと思います。『山海経』に載る多種多様な変な民族はまさにそれでしょう。「貫匈国」とか。
西洋においても大航海時代に流行った世界地図の示す「アンチポデス」には変な民族の絵がしばしば描かれていました。中野美代子先生の著作参照。

その異質性は基本的には「民族的な違い」「地理的な遠さ」の表現だと言えますが、それが「時間的な古さ」を表す可能性もある。古代中国の古帝王・賢人たちが常人とは違う奇妙な顔形をしていたという伝承。
日本でも初期の天皇は体の一部に龍の鱗が残っていた、などという話がありますが、そういう「異形性を宿していること」それ自体が、原初世界の一つの表れと考えられていたのかもしれません。

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後段登場する「内文鹿」は原文ママなのですが、「内本鹿」の誤記か習慣的な別表記の可能性が高いです。

「内本鹿」は現在はブヌン族地域の最南端の一角ですが、それ以前はルカイ族下三社マンタウラン社の居住していた場所だったらしい。
また『系統所属』に載るパシカウ社起源のヴァリアント事例によると、パシカウ社の始祖はそもそも「内本鹿」出身だとも言います。

『系統所属』には「石生は石生でも、内本鹿の石から生れた」「石生ではなく洪水神話」など別系統の事例もあるのでまとめてみようと思います。

プユマ族 「呂家社サギラダン家の伝承」『系統所属』(矛盾する系譜伝承)

Sangiradan家の由来

事例1
「嘗て大南社の頭目Masihsihなる者がトナ社に聟入りし、その子Hasiruvruvはトナ社頭目の娘Tanawasと結婚して大南社に来る。その子がMarewalで、これが呂家のSanguvに聟入りし、夫婦でSangiradan家を創めた。」

事例2
「トナ社からHasiruvruvと云う男が呂家社Tarovokan家の娘(名不詳)に聟入りし、Sangiradan家を創めた。」

事例3
「トナ社から呂家社の女に聟入りし、Sangiradan家を創めた者(Hasiruvruv或はMarewal)が山地に広大な狩猟地を所有していたので、これを総頭目とした。」

※1呂家社とトナ社は日本統治時代、既に全く交流しておらず、呂家社Sangiradan家の記憶もない。
※2大南社には「昔トナ社頭目家の男が呂家社Sanguvに聟入りし、Sangiradan家を創めた」という伝承がある。
※3事例3の「広大な狩猟地」がどこであったかは不明。

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呂家社の総頭目家サギラダン家の系譜伝承。
前回の伝承で登場した三人の女始祖の一人、サグフSanguvが始めたのがサギラダン家。

しかし『系統所属』は二つの系譜伝承を紹介していますが、だいぶ異なっている。
まあよくあることと言えばよくあることです。

事例1、事例2は系譜伝承ですが、事例2が呂家社とトナ社の直接的な系譜を語っているのに対して、事例1は大南社を経由しています。
事例3はSangiradan家が呂家社の総頭目家を務めている由来を語った伝承。

それにプラスして、トナ社※1、大南社※2、呂家社※3という条件が入る。

これをどう解釈するか?

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事例3と※3、及び事例2※2を考えるに、「トナ社から呂家社へ聟入ってきた男がいた」というのは共通して言われていることです。

しかしその男が「トナ社頭目家の男」だったかどうかは疑わしい。もしそうなら、トナ社側に伝承が残っていても良さそうなものですし、その男が「広大な狩猟地」を持参して呂家社に聟入ったとすればトナ社側の大損失になりますが?
またその「広大な狩猟地」がどこにあったか不明であるというのも怪しいですね。

恐らく「トナ社から呂家社へ聟入ってきた男がいて、それが呂家社の女と共に頭目家を創設した」ということがメインの主張であり、「その男は頭目家の出身だった」「その男が広大な狩猟地を所有していた」という点については「そういう話もあるらしいよ?」というレベルの話だったのでは?とか思います。

しかしサギラダン家が総頭目を務める正統性が「広大な狩猟地の入手」にあるにもかかわらず、その「狩猟地」の場所すらわからないというのはどういうことなのでしょうね?
それで、他の頭目家は納得するのでしょうか?

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事例1では、サギラダン家はトナ社から直接的に聟を受けいれたのではなく、大南社を経由していると主張しています。またその聟Marewalは男系は「大南社頭目」の血筋を、女系は「トナ社頭目」の血筋を引いているとしています。
しかし※2の大南社コメントでは、その聟が大南社の血統であるなどということは言っていません。

頭目家の次男坊・三男坊が聟入りしたというならわからないでもないですが、頭目自身が他社に聟入りしたというのは、かなりの大事件です。しかし大南社の方ではそんな伝承はない。

となると、この事例1の系譜伝承はサギラダン家が大南社との関係性を主張しようとして作り出された可能性が高いと見るべきでしょう。

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「サギラダン家はトナ社の男が聟入って来ることで始まった」。これはまあ良し。

その男が「広大な狩猟地」を持参してやってきたというのは怪しい。
・・・しかし総頭目家を務める正統性が狩猟地の確保にある、というのはわかりやすい基準です。
そうなると、呂家社の場合は大南社との関係性が非常に大切になってきます。

現在の呂家社(利嘉部落)は大南社の隣にあります。かつても同じ場所にあったかどうかは定かではないですが、その辺りの山地を狩猟地として利用するなら大南社との折衝は総頭目家の大きな仕事だったろうと思います。
何の取り決めもなしで、誤って相手の猟場に入ってしまった場合、首を狩られる可能性は常にありますから。大南社はこの地域の一大勢力ですが、それは強大な武力を背景にしたものでした。仲良くするにこしたことはありません。

・・・以上を踏まえると、矛盾しているように見えるサギラダン家にまつわる三つの伝承事例は実はそれぞれに意味があるとも言えます。整合性は取れませんが、それぞれに「意味」は存在する。

事例3は狩猟地の確保が総頭目の正当性に強く関係することを言っている。
事例1は大南社との関係性を言っているが、大南社の方では認識していない・・・これは呂家社内へのアピールの意味がある。「サギラダン家は大南社と縁があるから、狩猟地の確保維持が行なえる」。

トナ社との血縁的関係性が、大南社のサギラダン家に対する信頼感上昇に寄与しているかはちょっとわかりません。そもそも「何々族」という括り自体は外部者によって名づけられたものですから。
しかし大南社も昔はトナ社とも交流があったはずですから、それなりに意味はあったのではないかと思います。どうでしょうね?

事例2では「トナ社の男」について「頭目家出身」とは言っていないのに、大南社の方で語られている伝承では「トナ社頭目家の男」となっているのは、呂家社側の宣伝が効いているのかもしれませんね。



今回は、普通の神話研究では等閑視されがちな系譜伝承について見てみました。

記紀神話でも、それぞれ異なる系譜があったりしますが、それは誤伝なのか?意図があるのか?見抜くのはなかなか大変だと思います。
しかし基本的には何かの意味・意図があって語られていると考えるしかないのだろうとは思います。

その上で、リアルな現実的社会関係においても、一つの固定的な系譜伝承を押し通すのではなく、幾つかの系譜伝承を並行的に保持しておいて、それぞれの場面で使い分けるというようなことも、実は結構行われているのかもしれません。
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