神話伝説その他

神話・伝説・昔話の研究・翻訳ブログ。日本・台湾・中国がメイン。たまに欧州。

台湾セデック族・タロコ族

セデック族 首狩りの禁忌

セデック族の首狩り規範及び禁忌

1首狩り隊の成員は紡織機や苧麻に触れてはならない。
2首狩り期間は他人の食べ物を借りてはいけない。また他人に食物をあげてはいけない。
3屋内の火鉢は新たに火を起こし、この火は外出して首狩りをしている間は絶やしてはならないし、他人に火を分けてはいけない。
4私通・姦淫・セックスを行ってはならない。
5喧嘩をしたり、騒いだり、汚い言葉を吐いたりしてはならない。
6顔を洗ってはならない。口げんかをしてはならない。結婚式をしてはいけない。他族の結婚式に参加してはならないなど。

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1はよく見る禁忌ですが、首狩りは特に男性の専権事項ということもあり、より強いタブーが発生するということでしょう。

2は首狩り隊成員と他人との関係性。なぜ食べ物の貸し借りがいけないのか?首狩り自体は栄光ある行動なのですから、他者はあやかろうと考えそうなものですが?
これについては「首狩り期間」と「首狩り成功後」の首狩り隊に対する感情や対応の違いについて比較する必要があるような気がします。

3首狩り期間中首狩り参加者の家では火を絶やしてはならないというのは、「陰膳」的な発想なのだと思います。ただここでも他者に火を貸してはいけないと言われます。

2・3で他者との食べ物・火の貸し借りを禁じているのは、穢れが他者に移る事を嫌っているのか?それとも首狩り参加者の家庭のパワーを減じないため、という意味でしょうか?後者の方が強そうな気もしますが、穢れもないとは言えません。
首狩りは英雄的な行為ではあり、現在の原住民もそれを強調する傾向はありそうですが、危険を伴うというのも事実であり、両義的な意味付けもあったはずです。その辺、首狩りを巡る習俗を緻密に見ていく必要があるはずです。

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4性的な禁忌ですが、理由についてもっと詳しい報告が欲しいものです。

5喧嘩の禁止というのは、首狩りの神聖性を考えると納得は行きます。しかし一方で危険な戦闘行動?でもある首狩りにおいて感情のコントロールを重視するのは難しいものです。

6顔を洗ってはいけないというのはありそうですが、理由づけは良くわかりません。
結婚式を開いてはいけない、というのは首狩り期間中結婚適齢期の男性は出払っている可能性が高いですから、そもそも無理な気もします。
他族の結婚式に参加しても行けない、というのは食べ物タブーにみられるような、「内と外」関係と共通するものかもしれませんね。

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やはり首狩り期間とその前後の変化について、儀礼過程を追わなければならないでしょう。それこそターナー的な緻密さをもって。

ただそこでもやはり難しいのは現在ではこの儀礼自体が失われているということです。日本時代の記録ですら、当時の人の記憶をたどったモノでしかありませんから、詳細な研究にはかなりの困難が予想されますね。

セデック族 首狩りの理由

沈明仁『崇信祖霊徳:賽徳克人』・邱若龍『GAYA1930年的霧社事件與賽徳克族』


セデック族が「首狩り」ガヤを執行する理由

1族人の間の衝突が解決できない時。
2部落内で疫病が流行した時。
3顔に刺青を入れる時(成年礼)
4農作物が不作の時。
5狩りをしても獲物が取れない時。
6部落の中の決まった歳時祭儀。
7族内での栄誉と地位を獲得しようとする時。
8結婚対象(情婦)或は女性の歓心を得ようとする時。或は他の人から誤解を受けた時。
9冤罪の疑いを晴らす時。
10親族の仇を打つ時。
11勇気を誇示する時。
12災いを祓おうとする時。
13豊作を願う時。


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1・8・9は社会的な問題を解決するための手段であり、現在ならば裁判を行うようなケースだと思いますが、それも首狩りによって解決します。解決というか神に判断を任せる運試しというか。

古代日本ならば熱湯に手を突っ込んでやけどをしないかどうかで真実を明らかにする「盟神探湯」がありましたが、その場合はやけどをする確率の方が多いわけですから、結局のところそこまで追い詰められたら、もうほぼアウトということになるでしょう。

しかしセデック族の場合はある意味、首狩りの技術が高ければ結構何でも言い逃れができそうな気もします。
もちろん返り討ちに合ったり、仇として命を狙われる危険度も高いので、結局のところバーターなのかもしれませんが。

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2・4・5と、4の裏返しとしての13、年中行事としての6は部落全体に関わる首狩りです。12の災いを祓うというのも個人ではなく部落全体の災いととらえればここに入りそうです。

首狩りは個人で行うことは少なく、「首狩り隊」を組織して実行するという報告もありますが、部落のための首狩りならば恐らく集団で行うことになるのでしょう。

また3の成年式における首狩りもチームを作ってやりそうな気はします。一人で行かせたらほとんど帰ってこられないでしょうから・・・

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7・8・11は個人の栄誉に関わるものですが、これは一人でするのか?集団でするのか?気心の知れた友人同士で行い、中の一人に花を持たせる、とかもありそうですが。

セデック族の友人によると、モーナ・ルダオもかなりの首狩り数を誇っていたらしく、その具体的な数も伝承されています(聞いたけど忘れました)。もっともセデック族第一位、というわけではなかったそうですが。

しかしそれは「強いから俺が王者だ」というわけでもないと思います。
初めに見たように、首狩りに部落の問題を解決する効力があるとするならば、首狩りの名手は自分の意見を周りに認めさせられる可能性が高いからです。
逆に直接的な戦闘は強くても首狩りは苦手という人もいたはずです。この辺、首狩りの方法みたいなものも押さえておく必要がありそうですが。

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また首狩りの対象についても気になる所ではあります。今回元ネタにしている論文では、伝統的なガヤとして「女・子供・老人・障碍者は首狩りの対象としない」と書いているのですが、本当にそうなのか?セデックではなかったように思いますが、普通に女子供も首狩りしていたという伝承も結構ありますし。また同族群間では首狩りはなかったという話もありますが、どうなんでしょうね?

現代的な観念でみればやはり残酷な習俗ではありますから、出来るだけつくろいたくなるのが人情だとも思いますので、この辺は冷静に資料を集める必要がありそうです。



台湾原住民の首狩り習俗については、山田仁史先生が「資料と伝承集つけて普通に書籍として売った方が良いんじゃない?」というような非常に充実した論文を書いています。
もう一度読み返さないといけませんね。

セデック族 セデック族の祖霊観

記憶の中Utux

1Utuxの姿は人が埋葬された時の姿である。
2人の運命は完全にUtuxに支配されている。
3夢はUtuxが現れたもので、夢の状況で運命を判断することができる。
4善良なUtuxは人に忠告や警告の夢を見せる。人に苦しみを与えることはない。彼らは人間を守護しており、人を殺したりすることはない。しかし善良なUtuxは首狩りや機織りをしない者を庇護することはない。Utuxは人の善悪によって福をもたらしたり、災いをもたらしたりする。
5邪悪なUtuxは人に毒薬を飲んで殺されたりする夢を見せる。しかも夜半に人の首を絞め苦しめる。邪悪なUtuxは怒ったりするが、怒っているUtuxに出会った人は死ぬか、負傷する。
6Utuxは永久不滅である。
7昼夜を問わず、深山の森を歩いていて、風もないのに木の葉が音を建てたり話し声が聞こえたりすることがあるが、それはUtuxである。Utuxは人に話しかけるが、人の問いかけに答えることはない。
8Utuxは先人たちの遺訓を表し、伝統習俗を破壊する人間を憎む。男女の姦通については特に怒り、Utuxは必ず罰を与える。
9Utuxを見た人は病気になって死ぬ。夜半人の影を見たとしたら、それはUtuxである。常に供え物を上げている人はUtuxを恐れる必要はない。
10夜点滅する火を見たら、それはUtuxの火である。見た人は病気になる。
11暴風はUtuxが起こしている祟りである。暴風に見舞われた人は病気になる。
12死体の傍らには必ずUtuxがいる。だから死体に近づこうとしない。特に横死した死体には近づかない。横死があった地点にも絶対に近づこうとはしない。その場所を通ったり、そこで耕作することももちろんない。
13虹を指さすことは禁忌である。もし虹を指さしたら、指は曲り、甚だしくは切断されてしまう。
14邪悪なUtuxは家の中や道具に憑くことがある。もしUtuxが憑いたものを人に売っても、それはまた身近な場所へ戻って来る。もし他の人がこのようなものを買って不測の事態に見舞われた場合には賠償の責任がある。

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以後三回のまとめは「セデック人のガヤから考える映画『セデック・バレ』」(原文中文)という論文からの孫引きです。

今回のは久部良和子氏「賽徳克人霧社群の祖霊観」という論文から引かれた部分。

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Utuxは死霊であり祖霊であり神でもあります。原始的な宗教と言うとアミニズムを思い浮かべがちですが、祖霊万能主義といいますか、超自然的なことや幸不幸は全てUtuxのせい、という感じです。

ターナーvsレヴィ・ストロースの儀礼論争で、個々の儀礼や動作などの由来を何でもかんでも「先祖たちが決めた習わしだ」の一言で説明するアフリカの民族の事例が取り上げられたことがありますが、ちょっとそれを思い出します。

私の興味からすると「動植物や自然界の事物のUtuxはあるのか?」という辺りが気になる所ですが、そういう調査はあるんでしょうか?
管見に入る限りでは、虹の橋伝承に登場する「蟹のUtux」が唯一の動物Utuxですが。

またUtuxの善悪二種類についてはまとめのなかでも触れられていますが、レベルがあったり、パンテオンを形成していたりするのか?力の強弱など区別があるのか?男女の違いは?など確認が必要な点は多そうです。
あまり期待はできませんが。

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神話伝承の関係でいうと、11のUtuxが起こす暴風については興味をそそられますが、それについてはガヤのタブーとの関係が強そうなので、そちらの方もまとめないといけませんね。

セデック族 「楽園喪失」

太古、言い伝えによると、人類の生活はとても幸福なものだった。人が粟をまくのも一粒だけでよかった。人はそれを家の門の傍らにまいた。人の仕事はその人株の粟の傍らに座って、面倒を見ることだった。蠅が近づかないように粟の殻を揺する。収獲したあとは人は一粒の粟を鍋の中に入れれば、鍋の中で奇跡が起こって、粟飯がいっぱいに増えた。
古人は言った。もし獣の肉が食べたければ、野獣が人の前にすぐにやってくる。人は野獣の毛を一本とって、それを円形の竹藤製の米篩(Btuku)に入れる。その後もう一つの米篩で蓋をする。しばらくして蓋を開けると、肉が篩いっぱいに増えているのである。今、人がいにしえの伝統習慣を喪失してしまったことは惜しいことである。
昔ある愚かな女性がいた。飯を炊くときに、一袋の粟を鍋に入れて煮たのである。彼女が蓋を開けたとき、「ビ」と音がして粟飯は全て穀物を食べる小鳥purucに変化してしまった。
同じように、またほかの愚かな女が習俗を破壊してしまった。彼女は野獣の体から肉を切り取ったのである。これ以後、人が呼んでも野獣が現われることはなくなった。野獣は人間にこういった。「人は草叢や林で体を刺されながらも山へ入らなければならない。そうして初めて肉が食べられるようになるのだ」。

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・耕作は粟一粒を家の近くに巻いて見張りをするだけで良かった。
・一粒の粟で鍋一杯の粟飯が炊けた。
・野獣が自分で人間のところにやって来た。
・野獣の毛を篩に入れておけば肉がいっぱいになった。

これらは台湾の他の民族でもよく語られる「太古の楽園状態」です。
射日神話とかもあるので台湾原住民の神話の中の「太古」が常に楽園であるとは限りませんが、「農耕も狩猟も必要なかった」という、「苦しい労働が不要な時代だった」という意味の「楽園状態」です。労働の起源神話といっても良いですね。

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怠惰や過度な欲望が、古代の楽園状態の喪失につながりますが、ここではどちらも女性のしでかしたことということになっています。

粟の話は、確かに女性が横着をして発生したことだと語る事例が多いですが、野獣の毛の話の方は必ずしも女性というわけでもなかったように思います。この辺確認が必要ですが。

しかし「古代において女性がしでかしたことによって人間全体に災厄がもたらされる」という話は、『創世記』のアダムとイブの楽園喪失においてもそうですね。

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粟の神話については害鳥の起源神話でもありますが、雀のようです。

一方野獣の肉の神話は野生動物の起源でもあり、狩猟の起源でもあります。台湾原住民の場合、狩猟はどうしても行わなくてはいけないという性質のものではなく、特に南部の方では「趣味」と言い切るような場合もあります。

しかしセデック族の場合は狩猟に対する思い入れは強いのかもしれません。霧社などはかなりの高地ですから頑張って農耕をしても不作ということもあったかもしれませんし、そうなると狩猟で得る動物は貴重なエネルギー源となります。

現状、ブヌン族とツオウ族という中間地帯に住むに民族についてはまだ神話をまとめていないので、台湾全体の原住民神話比較まで手が出ませんが、やはり台湾本島の原住民については網羅的に神話を整理しないと地域差に関する考察なども難しいですね。

セデック族 「死後の審判」

古人は言った。人が生きるためには必ず苦労して働かなければならない。なぜなら人が死んだ日、門を守る神の審査があるからである。
もし男が死んだら、彼の手は必ず門を守る神に調べられる。もし彼の手に血の跡が見えれば、それは彼が勤労者であることの証である。門を守る神はすぐに彼に橋を渡って対岸へ行くことを許す。
もし米粒Miriを編むことができる女性が死んだら、門を守る神はすぐに彼女が橋を越えて光明の対岸へ行くことを許すだろう。もしMiriを編むことができない女性が死んだら、門を守る神は彼女に橋を渡ることを許さない。不幸なことに彼女は門番の神に深遠に押し込められて、大蟹神に食べられる。
眉原村タイヤル族の長老も同様の伝説を持っていた。人が死ぬ時は必ず門番の神の試験を受ける。もし死者の手が十分に赤くなければ、門番の神は彼に身長と同じ長さの杖を与えて短くする。彼は再び戻って神の試験を受けて通過することができるのである。

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セデック族やタイヤル族では死後人は虹の橋を渡って先祖の霊が宿る山へ行くという伝説があります。

男の手が血で赤くなければならないというのは、生前に首狩りをしなければならないという意味ですが、これは「理想としては」という話なのか、それとも本当に全ての男がしなければならないと考えられていたのか、気になる所です。
首を狩らなければ成仏できない、ということならば、セデック族には階層などないので、真の意味で「戦闘民族」ということになります。まあ首狩りが「戦闘」であるかどうか、ということも考える必要があるのだと思いますが。

一方女性は織物に長けていることが求められます。服飾は女性の仕事ですから、それ自体は他の民族の神話でもよく見ますが、「米粒を編む」というのは他ではあまり見ないモチーフです。

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その虹の橋には門番がいるわけですが、これについてセデック族の他の伝説では蟹の神だとも言います。
ここでは門番の神と蟹の神が別の神ということになっていますが、元は蟹の神だったものが、審判という人為的な仕事を司る神としてふさわしくないと思われるようになり、分化したのかもしれません。

しかしそれにしてもなぜ「蟹」なのか、気になる所です。

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眉原の棒の件は良くわかりません。翻訳を間違えた可能性もあるので、原資料の確認が必要な部分です。

セデック族 「死の起源」

太古、伝説によると、一人の人が突然豚の糞の中から飛びだした。多くの人が彼を囲んで見ていた。豚の糞から飛び出した人は言った。「私を洗ってください。もしあなた方が私を洗えばあなた方の体は洋蹄甲樹と同じように換骨奪胎して永遠に生存できます。もし私を洗わなければあなた方の体は永遠に死ぬでしょう」
人々は彼が汚いのを嫌って、彼を洗わなかった。或はこれが原因であろうか。その時から人類は死ぬようになったのである。

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セデック族の死の起源神話。

豚の糞から人間が飛び出す、ということ自体ちょっと想像が難しいですが、そこから出てきた人間を洗わなかったために人間が死ぬことになったという話です。

死の起源神話というと、バナナ型や日本のコノハナノサクヤヒメ神話が想起されますが、この伝承も二者択一の死の起源神話と言えるでしょう。

それにしてもバナナ型とサクヤヒメ神話の「石」の永遠性というのは、まあ分かりやすいわけですが、「排泄物と永遠の命」の関係性というのはそんなに単純ではないように思います。

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羊蹄甲樹は亜熱帯にあるマメ科の植物のようですが、特に再生力を印象付けるような外見ではないように思います。

台湾には「白千層」という皮が自然に割れてめくれていく、まるで常時脱皮途中のような樹木がありますが、そういう樹なら分かりやすいのですが。

セデック族 「巨人」

かつて巨人が嘉義から来たという。彼の足跡は嘉義から、草屯を通って埔里へ着き、埔里で寝た。埔里鎮は巨人が寝た場所なので、埔里の平原は比較的大きいのである。
彼は長くそこに住んでいたので、人々は彼を誘って狩りへ行った。彼が道を塞いで犬が動物を追い立てて彼につかまえさせるのである。しかし彼は獲物を分けずにすべて自分のものにしてしまった。
人々は先に高山へ上がって石を持ち、巨人に山鹿が行くから待つようにと言った。その後、石を転がして巨人に「お前の方へ行ったぞ」といったので、巨人は石を飲み込もうとしてそれが口の中に挟まってしまった。後に彼は怒って埔里から去った。
言い伝えによると埔里は巨人が眠った場所である。霧社の湖も彼の足跡だという。もう一つの足跡はTruku高山の上の湖である。彼は花蓮へ行ったという。彼は戻ってこなかった。彼は後に「お前達はなぜ私にこんなことをするのだ」といって去っていった。
以前人が犬を連れて山へ行った時に彼等は巨人を連れて行った。人々は狩をするときには崖を回っていくしかなかった。巨人は回り道をする必要はないと言って、生殖器を取り出して橋

として対岸へ送った。これは先人が残した話である。
この巨人は良い狩猟仲間である。

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セデック族と同系統であるタロコ族に巨人伝承がたくさんあるということは前にもこのブログで取り上げましたが、もちろんセデック族にも巨人伝承があります。

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巨人が狩りに同行したものの、獲物を全て食べてしまったために人々が怒って焼いた石を獲物だと偽って食べさせて殺したという話は、他の民族にもよくあるモチーフです。

しかし今回の事例では石を食べさせるものの、焼いてはいません。したがって巨人は死ぬことなく怒って花蓮方面に去ったということになっています。

「この巨人は良い狩猟仲間である」とありますので、タロコ族巨人伝承に良くある「巨人が復讐のために地震や台風を起こす」モチーフへとつながっても良さそうなものですがそうはなっていません。

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また性器で橋を作る話も、広く巨人伝承に付随するモチーフですが、それらは「女性が渡る時には硬く安定しているが、男性が渡る時には不安定なる」と説明がつくなど、巨人の好色さと結びつけて語られることが多いです。
でも今回の事例では、狩猟の時の話となっており、わたる人間は男たちが主となるわけですから、好色さは関係ありません。

どうもこの伝承では巨人の負の面が軽減されているような印象を受けますね。

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この巨人は、埔里盆地の由来と霧社の湖という具体的な土地の由来譚となっており、さらに「嘉義から来た」とされています。

話者の印象としては、もしかするとこれら具体的な土地と巨人とのつながりの方が興味が強く、巨人そのものについてはあまり関心がなかったのかもしれない、とか思います。
伝承地である眉渓には行ったことがありますが、埔里にも比較的近く、買い物や就学など日常的に埔里へ行くことが多いという土地柄ですから、そういう現代の生活環境とも関係がありそうです。

セデック族 「女人部落」

言い伝えによると、彼女達はDroduxの高山の上に住んでいた。男がその道を通る時、彼女達は飼っている土蜂を放って彼らを追いかけた。彼らが水中に逃げても彼女達の土蜂は追いかけた。
男達はこのことを知った後、相談して、以後その道を通る時には男の服を着ず、女の服を着ることにした。だからそこへ行く男はみな女の服を着た。彼女達はどうして全て女なのかと言って、土蜂を放ち、服をめくった。彼女達はそれらの男達を捕まえて、籠の中へ閉じこめて彼らを飼った。サツマイモで彼らを養った。
彼らPyumaの女達は言った。どうして豚たちは固体の食物を食べるのか?幾人かのPyuma女たちも彼らに学んで食べてみたが、彼女達は皆死んだ。彼女達は元々固形のものを食べず、煙を食べていた。彼女達はものを煮るが、その湯気を食べるだけであった。しかも彼女達は食べ残した固体の食べ物を、男達のまねをして食べた所死んでしまったのである。男達はただサツマイモを食べて、彼女達と性交し、やせ細っていった。男達は籠を破って逃走した。
人々は非常に怒って、彼女達の全てを焼き尽くした。彼女達は林の中に住んでいたので、全てが燃えた。
人々は彼女達を全て焼き殺した。なぜなら彼女達は男達に彼女等との性交を強制し、彼らをやせ細らせたからである。彼女達には男はいなかった。女だけである。
問:「どうやって彼女達は子供を生んだのか?」
彼女達は子供はいる、子供を食べてしまう。男の嬰児は食べる。彼女達は女の子は食べずに男の子だけ食べる。男の子の母親に食べさせる。
問:「彼女達は小人だったのか?」
人は彼女達をSnsinguc小人と呼ぶ。彼女達は木豆の木の枝に登っても倒れることはない。「彼女達は木に上って何をするのか?」。彼女達は木に上ってそれを揺らす。彼女達がどのぐらいの大きさか、我々も見たことはない。彼女たたちは木の枝の上で遊ぶ。木豆の木の枝も折れない。あなた達の父も小人だと言った。
人は彼女達を焼き尽くした。彼女達の村落は森林だった。草叢のようだったという。彼女達も開拓の仕事をしたのか?あなたの父が言うには彼女達もサツマイモをもっていたという。彼女達は煙を吸う。あなたの父は彼女達は肛門がなかったという。

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女人部落の話は広くあります。アミ族の場合は女人島。
セデック族の女人伝承は蜂を使うのが基本のようです。確かタイヤル族にもあるモチーフだと思いますが。

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この伝承の面白いモチーフは女人部落の存在を知ったセデックの男たちが女装したことですね。これは他の伝承では見たことがありません。
まあ失敗して見破られてしまうわけですが。

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次に注目すべきモチーフは「煙を食べる」というものですね。煙だけを摂取し、固形物は食べない。固形物を食べると死んでしまう。

この「煙を食べる民族」は女人部落伝承ではなく、単独の異民族伝承として存在する場合もあります。また小人伝承と結合する場合もありますし、地底人伝承と結合する場合もある。巨人伝承にはありませんが。
私が「台湾原住民の『異民族伝承』はモチーフの互換性が高い」と思う所以です。

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後半はまた聞き書きそのままの記述になっていますが、「産れた男の子はそれを産んだ母親が食べる」というのは他の民族の伝承では見たことがありません。まあ単に採録者がきかなかっただけという可能性がありますが。

女人部落がどうして女だけであるのかという説明ですが、女人島伝承などでは「性器に風を受けて妊娠する」とか「井戸を覗き込んで妊娠する」など、女の単性生殖によって説明することが普通なのですが、ここでは実に即物的です。
普通なら「男の子を育てて、結婚すれば男を捕まえる必要はないんじゃない?」とも思いますが。

女人島伝承では女が人喰いである場合もありますが、この伝承のように「自分の生んだ男の子を食べる」などという事例は見たことがありません。女人部落の恐ろしさが更に強調されるモチーフです。



女人部落の女たちが小人である、というのもセデック族には良くある話のようで、私も聞いたことがあります。

小人が豆の木に登ることができるというのはタイヤル族の小人伝承でもよく言われるモチーフですが、スクナヒコナが粟にはじかれた話を想起させるモチーフです。
これが女人の特徴として言われるのは不思議と言えば不思議なのですが、セデック族の友人に直接聞いた話によると、「逃げた男たちによって攻められた女人部落の女たちは豆の木に登って木の中に隠れた」と言います。話の流れとしては意味のあるモチーフと言えるでしょう。

あと、その豆の木の種類など、特定の豆の木について女人部落伝承と結びつけて語られていたりすると面白いところですが、それについては今後の聞いてみたいと思います。

セデック族 「天地分離」

「天上」に関して私は知らない。先輩達は気にしなかった。彼等は知っていたのだ。我々後代の子女はよくわかっていない。私はもうはっきり覚えていない。先人達がかつて言っていた。我々は先人達が言うのを聞いたことがある。
言い伝えによると、二人の娘が粟を搗いていたという。どうしたことか杵が突然飛び上がって天上へと行ってしまった。お互いにぶつかって天へ飛んでいってしまったのかもしれない。
私は先人達が言うのを聞いたことがある。二人の娘が米を搗いた時、なぜかその杵が、或はぶつかった為か、天上へ飛んでいってしまった。彼等はこのように語った。私も見たことはない。

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天を杵で突き上げてしまい天地が分離したという伝承。

中国の少数民族では以下のような事例があります。
・ラフ族。巨人が杵で天を押し上げた。
・ワ族。山の山頂で初めて穀物をついた時に杵が天に当たり、高くなった。
東南アジアにかけて結構事例があるようですね。

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台湾原住民では、パイワン族に「天が低く暑かったので、杵で突いた」という事例がありますが、天を突くのではなく、太陽を突く場合もあり、射日神話に近かったり、天を押し上げたのちに射日神話に連続したりする事例もあります。
プユマ族では妊婦が杵で天を押し上げた話がありますが、これも天が低く暑かったことが理由です。
パイワン族では妊婦の場合も神の場合もあります。

セデック族 「洪水神話」

ある時、突如大雨が降った。Pgdiyanという山以外の場所は全て水没した。大地は全て大洋に変わった。
洪水が起きた時、人々は高山に逃げたが、しばらくたつと焦って不安になって言った。「我々はこの山で何を食べればよいのか?」。彼等は家を捨ててきたのだが、彼らの食べ物や家屋は流されてはいなかった。彼等はUtux(神)がそれを守ってくれたのだと考えた。かつて我々は神と言い、「天の父」とは言わなかった。
人類が高山Pgdiyanへ逃げた時、一人の老婦人は歩くことができなかったので、人々は彼女を残してきた。芋干し板を彼女に被せた。人々は彼女はそこで死なせようと行った。力のある人がPgdiyan高山へ上って、そこで洪水が引くのを待っていた。
しかし人々はまた考えて、言った。「どうすればいいのか?我々は全てこの山で死ぬのか?」。彼等は相談した結果、聾唖の青年男女を選んで化粧して綺麗な服を着せて水に投げ込み、洪水が彼らを受け入れるかどうかを試してみた。しかし不幸にも洪水は彼らを受け入れず、対岸の乾燥した場所へ押し流してしまった。
人類はまた考えた。これではいけない。そこで人類は美貌の若者男女を選び、彼らに伝統の礼服を着せた。男は赤い袖の礼服を来て、女はネックレスや耳輪などの装飾品を見につけた。その後彼らを水に入れると、彼等はすぐに洪水に受け入れられた。彼等は座って竹口琴を吹きつつ、水に流されていった。
その時から洪水は次第に引いていった。あの二人の男女は見えなくなり、遠くまで行った。水が乾いて、人々は喜んで故郷へ帰った。彼等は自分の故郷へつくとあの老婦人を探した。彼女は家におり、まだ生きていた。たくさんの干し魚があった。これらの老人達の伝説は確かにユダヤ人の歴史と非常に良く似ている。
人々はあの二人は南方へ流れていったと言っている。或は彼ら二人は南へ行って繁栄したのかもしれないが、どうなったのかはわからない。

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台湾原住民の洪水神話は発生の理由が語られないことの方が多いようですが、その場合でも水を引かせるためには神に生贄を捧げることになります。

またセデック族の洪水神話の特徴かもしれませんが、老人が一人部落に残るものの、生き延びるという話が付随します。
このモチーフにどんな意味があるのかは不明ですが、旧人類が一掃されて、新たな人類始祖神話(兄妹始祖とか天人女房とか死体化生とか)につながる事例では決して見られないものでしょう。

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この事例でも、山に逃げ延びた人々は沢山いるみたいですから、生贄も出せるわけですが、洪水以後の生贄伝承の共通点としては、醜い男女や老人を生贄にしても水は引かず、美男美女を生贄にしなければならないと語られます。

この美男美女について、他のヴァリアントでは「アメリカ人になった」と語るものがありますが、これはセデック族の美的感覚でアメリカ人(恐らく白人を代表するものとして)が美男美女であるという観念を見ることができます。
しかし一方で、ツオウ族に伝わる「ツオウ族・日本人同祖神話」とも関係があるかもしれません。

本来はこの伝承のように、漠然とした「異民族の起源」を語る神話だったものが、特定の民族と結びつけられる。ツオウ族の場合も日本人とはっきり言わず、ツオウから分かれた人々が「マヤ」と呼ばれ、「どこに行ったかわからない」としていたものが、日本人に結びつけられたのでしょう。しかし「マヤ」と言うだけならば、別の民族とも結びつけられる余地があります。
このような神話の「拡張性」みたいなものは、神話研究でももっと注意を払っても良い部分かもしれません。
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