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宋の康王の侍従韓憑は何氏という美しい妻を迎えたが、康王はその妻を奪い取ってしまった。王は憑を逮捕して城壁の人夫にした。
妻は憑へ手紙を送ったがその内容は「長雨が続き、川は広いし水は深く、日はさしのぼって胸を照らします」というものだった。蘇賀という家来は、これを憂いつつあなたを思っても、通うことが出来ないので、死を誓ったという志を示したものだと読み解いた。
その後憑が自殺すると妻は自分の着物を腐らせておき、王に連れられて台へ登った時に身を投げた。近侍たちがつかまえようとしたが、着物をつかみ取ることができず、妻は落ちて死んだ。
その帯には遺言があり、死体を憑と一緒に埋めて欲しいと書かれていた。しかし王は承知せず、二つの墓が向き合うようにした。「お前達夫婦は愛し続けているようだが、もしも二つの塚を一つにすることができたら、私も邪魔はしない」と王は語った。
数晩のうちに両方の塚から大きな梓の木が生えて、十日も立つと抱えきれないほど太くなり、幹を曲げて近づきあって、下の方では根が、上の方では枝が交差し始めた。また雌雄一羽ずつの鴛鴦がいつものその木をねぐらにして、朝から晩まで枝を去らず、首を刺し交えながら悲しげに鳴いた。人々はその声に感動した。
宋の人々は哀れに思ってその木に「相思樹」という名をつけた。「相思」という名称はここから始まったのである。
南方の人の話によればこの鴛鴦は韓憑夫婦の魂魄であるという。今、睢陽(すいよう−河南省)には韓憑が築いたという城があり、二人の歌もまだ伝わっている。
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中国四大故事の一つ韓憑説話。
文中の「宋」は戦国時代(BC403−BC221)の宋。現在の河南省です。康王は戦国宋の最後の王であり、BC286に没。暴君で、「桀(夏最後の王)」「紂(殷最後の王)」になぞらえられるような人物だったようです。
臣下の妻を奪ったりするというのも史書にあるみたいですね。
そして伝承の性格としては、「相思樹」の起源伝承であり、スイヨウの城にまつわる伝説でもあります。
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この伝承、私が初めて読んだのは授業でしたが、それは記紀の垂仁天皇のところにあるサホビコサホビメ伝承との比較でした。人間関係や服を腐らせてつかまれないようにするというモチーフが共通している。
そのときの先生は垂仁天皇条への影響定着について興味を持っているようで、土師氏の氏族伝承から流入したというようなことを考えているようでした。
ただ、やはりあまり似ているようには思えませんし、そういう方向性はあまり趣味じゃありません。
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「王と夫婦」「王と兄妹(ヒコヒメ的)」人間関係は確かに似ていますが、記紀のほうから見ると違いの方が顕著です。
つまり王のあり方が全然違うわけです。
片や夏桀・殷紂に比せられる暴君であり、片や「仁を垂れる」と名付けられる天皇です。この差は非常に大きく、垂仁記紀で土師氏の活躍が描かれるからといって「その氏族伝承だった」ですむような問題とは思えません。
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「相思樹」では妻が夫を追って死ぬことが美しいことであるというのが結論のように思われます。それは暴虐の王に抵抗する美しい死である、と。
しかし、「サホビメ」伝承、というか垂仁記紀ではむしろ逆。殉死を禁止しています。
両者の違いは視点の違いでしょう。かたや悪逆の王に抵抗するうつくしい夫婦愛、かたや優しき王と兄の間に引き裂かれたやるせない死・・・
確かにモチーフの類似から見れば、記紀が『捜神記』からこの伝承を借りた可能性は高いかもしれませんが、言いたいこと=神話の意味としては大きく異なっているように思います。そしてその「言いたいこと」というのはまさしく天皇王権の自画像=王権論であると思うのです。
垂仁条には、更にダヂマモリによるトキジクノカグノコノミ探索の失敗(間に合わなかった)が語られます。これは人の命のはかなさを物語っているという意味で、記紀神話における三度目の死の起源神話と言えるでしょう。
妻の死・殉死の禁止・限りある命・・・垂仁条の出来事を天皇王権の生死観を巡る伝承群であると読み解くと、結構日本と中国で大きな違いのある重要な部分のような気もしてきますね。
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「相思樹」についての話だったはずなのに天皇王権論になってしまいました。
上記の問題意識は天皇王権論として後でまとめるつもりではあります。
「相思樹」の結論部分は中国では様々な伝承に現れる転生譚です。
例えば蛇婿入伝承=「蛇郎君」の姉妹型では、お金持ちの蛇に嫁いだヒロインを姉が殺してしまいますが、その後ヒロインは蝶とかに転生し、蛇郎君への愛情を訴え続けます。
この辺仏教的な転生譚とはちょっと雰囲気が違う感じがします。中国民間の転生譚では、前世と来世は連続した世界の中にあるわけです。
中国人の死生観については中野美代子先生が昔の本で書いていたような気がしますが、よく覚えていません。困りましたね。
死後も人としての生が続くと考える発想は始皇帝の兵馬俑から現代葬式のケータイ燃やしまで一貫していると思いますが、民間伝承における転生譚というのは仏教的な転生観との融合によって生まれたものなのかもしれません。