神話伝説その他

神話・伝説・昔話の研究・翻訳ブログ。日本・台湾・中国がメイン。たまに欧州。

『捜神記』斜読

『捜神記』 相思樹

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宋の康王の侍従韓憑は何氏という美しい妻を迎えたが、康王はその妻を奪い取ってしまった。王は憑を逮捕して城壁の人夫にした。

妻は憑へ手紙を送ったがその内容は「長雨が続き、川は広いし水は深く、日はさしのぼって胸を照らします」というものだった。蘇賀という家来は、これを憂いつつあなたを思っても、通うことが出来ないので、死を誓ったという志を示したものだと読み解いた。

その後憑が自殺すると妻は自分の着物を腐らせておき、王に連れられて台へ登った時に身を投げた。近侍たちがつかまえようとしたが、着物をつかみ取ることができず、妻は落ちて死んだ。

その帯には遺言があり、死体を憑と一緒に埋めて欲しいと書かれていた。しかし王は承知せず、二つの墓が向き合うようにした。「お前達夫婦は愛し続けているようだが、もしも二つの塚を一つにすることができたら、私も邪魔はしない」と王は語った。

数晩のうちに両方の塚から大きな梓の木が生えて、十日も立つと抱えきれないほど太くなり、幹を曲げて近づきあって、下の方では根が、上の方では枝が交差し始めた。また雌雄一羽ずつの鴛鴦がいつものその木をねぐらにして、朝から晩まで枝を去らず、首を刺し交えながら悲しげに鳴いた。人々はその声に感動した。

宋の人々は哀れに思ってその木に「相思樹」という名をつけた。「相思」という名称はここから始まったのである。

南方の人の話によればこの鴛鴦は韓憑夫婦の魂魄であるという。今、睢陽(すいよう−河南省)には韓憑が築いたという城があり、二人の歌もまだ伝わっている。

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中国四大故事の一つ韓憑説話。

文中の「宋」は戦国時代(BC403−BC221)の宋。現在の河南省です。康王は戦国宋の最後の王であり、BC286に没。暴君で、「桀(夏最後の王)」「紂(殷最後の王)」になぞらえられるような人物だったようです。
臣下の妻を奪ったりするというのも史書にあるみたいですね。

そして伝承の性格としては、「相思樹」の起源伝承であり、スイヨウの城にまつわる伝説でもあります。

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この伝承、私が初めて読んだのは授業でしたが、それは記紀の垂仁天皇のところにあるサホビコサホビメ伝承との比較でした。人間関係や服を腐らせてつかまれないようにするというモチーフが共通している。

そのときの先生は垂仁天皇条への影響定着について興味を持っているようで、土師氏の氏族伝承から流入したというようなことを考えているようでした。
ただ、やはりあまり似ているようには思えませんし、そういう方向性はあまり趣味じゃありません。

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「王と夫婦」「王と兄妹(ヒコヒメ的)」人間関係は確かに似ていますが、記紀のほうから見ると違いの方が顕著です。

つまり王のあり方が全然違うわけです。
片や夏桀・殷紂に比せられる暴君であり、片や「仁を垂れる」と名付けられる天皇です。この差は非常に大きく、垂仁記紀で土師氏の活躍が描かれるからといって「その氏族伝承だった」ですむような問題とは思えません。

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「相思樹」では妻が夫を追って死ぬことが美しいことであるというのが結論のように思われます。それは暴虐の王に抵抗する美しい死である、と。
しかし、「サホビメ」伝承、というか垂仁記紀ではむしろ逆。殉死を禁止しています。

両者の違いは視点の違いでしょう。かたや悪逆の王に抵抗するうつくしい夫婦愛、かたや優しき王と兄の間に引き裂かれたやるせない死・・・
確かにモチーフの類似から見れば、記紀が『捜神記』からこの伝承を借りた可能性は高いかもしれませんが、言いたいこと=神話の意味としては大きく異なっているように思います。そしてその「言いたいこと」というのはまさしく天皇王権の自画像=王権論であると思うのです。

垂仁条には、更にダヂマモリによるトキジクノカグノコノミ探索の失敗(間に合わなかった)が語られます。これは人の命のはかなさを物語っているという意味で、記紀神話における三度目の死の起源神話と言えるでしょう。

妻の死・殉死の禁止・限りある命・・・垂仁条の出来事を天皇王権の生死観を巡る伝承群であると読み解くと、結構日本と中国で大きな違いのある重要な部分のような気もしてきますね。



「相思樹」についての話だったはずなのに天皇王権論になってしまいました。
上記の問題意識は天皇王権論として後でまとめるつもりではあります。

「相思樹」の結論部分は中国では様々な伝承に現れる転生譚です。
例えば蛇婿入伝承=「蛇郎君」の姉妹型では、お金持ちの蛇に嫁いだヒロインを姉が殺してしまいますが、その後ヒロインは蝶とかに転生し、蛇郎君への愛情を訴え続けます。
この辺仏教的な転生譚とはちょっと雰囲気が違う感じがします。中国民間の転生譚では、前世と来世は連続した世界の中にあるわけです。

中国人の死生観については中野美代子先生が昔の本で書いていたような気がしますが、よく覚えていません。困りましたね。
死後も人としての生が続くと考える発想は始皇帝の兵馬俑から現代葬式のケータイ燃やしまで一貫していると思いますが、民間伝承における転生譚というのは仏教的な転生観との融合によって生まれたものなのかもしれません。

『捜神記』 犬祖神話

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高辛氏の年老いた夫人が耳の病気で苦しんでいたが、医者が治療して繭ほどの大きさの虫を取り出した。医者はその虫を瓠の種を入れるざるの中に入れて盤をかぶせておいたところ、たちまち五色の毛の犬に変わってしまった。これを盤瓠と名づけた。

当時呉に住む夷狄は勢力が強く度々辺境へ進入してきたので、征伐のために将軍を派遣したが、敵の大将を捕えることができなかったので、王は天下に勇士を募り、夷狄の将軍の首を取ったものには金千斤を贈り、戸数一万の領主に封じ、姫を娶らせると約束した。

その後盤瓠が首を銜えて王宮にやってきたが王が見るとそれは敵将の首であった。家臣たちは盤瓠は畜生であるから功績があっても約束を守る必要はないと答えたが、姫は「盤瓠が外敵を殺すことができたのは天命があったからであるから、天下に布告した約束を破るべきではない」と言った。王は姫を盤瓠の嫁にした。

盤瓠は姫を連れて南山に登っていったが、人も通らぬ道であるので、姫は着物を脱ぎ捨てて蛮人のように髪を結い、粗末な毛織物をつけて盤瓠の後について行き、谷の石室に住むことになった。王は姫を思って悲しみ使者を送って探させたがそのたびに風雨が起こって山が振動し雲が立ち込めて石室まで行き着くことができない。

こうして三年の月日が経ち姫は六人の息子と六人の娘を産んだ。盤瓠が死んだ後その六人ずつが自分達同士で相手を選び夫婦になった。そして木の皮を紡いで織り、草の実で染めて着物を作ったが、五色の着物を好んだ。また裁断する時に尾の形をつけた。

その後母親が都へ帰って王にこの話をしたら、王は使者を出して息子と娘を迎えることにしたが、このときには風雨は起きなかった。しかし子供達は短い着物を着て言葉もあまり通じずしゃがんで飲食し山を恋しがった。王は大きな山と広い沼のある場所を領地として与え「蛮夷」と呼ぶことにした。

蛮夷は外面は愚かのようだが内心は悪賢く、自分の土地に落ち着いて旧来の風習を尊重する。中国人とは異なる気を天から受けているので普通とは違った規則によって取り扱っている。耕作や商業に従事する時も関所の通行手形や道中手形、租税義務などはない。村の酋長がありそれらには全て朝廷から酋長のしるしが授けられている。冠には川獺の皮を用いているが、それはこの獣が泳いで食物をとることからきている。いま梁漢・巴蜀・武陵・長沙・盧江の諸郡に住む蛮族がそれである。米の粉の羹に魚や肉をまぜ、桶を叩いて呼びながら盤瓠を祀る。その風習は今でも続いている。だから世のことわざにも、「赤髀横裙、盤瓠の子孫」と言うのである。

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犬祖神話。現在でもヤオ族やショオ族、東部ミャオ族などの中国南部少数民族に伝承されている実に息の長い神話です。

高辛氏とは帝嚳。『史記』を見る限りありきたりな祭祀・統治の記事があるだけの古帝王です。その意味では顓頊高陽氏とも似ていて、後代に新たな伝承を関係付けやすい王であるとも言えそうです。

逆に尭や禹はそれぞれ特徴的な伝承がある。何かの起源を関連付けようとしてもそれら特徴的な伝承の枠内で語られることになるでしょう。全く新しい伝承を付加するのは難しいと思われます。

この伝承は少数民族側の伝承が漢民族の耳に入って記載されたと考えるのが妥当だと思われますが、少数民族側が自ら「自分達は古帝王と関係がある」と主張していたのだと思われます。
最後の段に「耕作や商業に従事する時も関所の通行手形や道中手形、租税義務などはない」とありますが、実際に近年までそれを証明する手形(名称忘れました)のようなものがヤオ・ショオ族では存在していたそうです。もちろん実際に王朝時代に朝廷から与えられたものだとは思えませんが。

日本ではこの種の民族の起源神話というのはないわけですが、伝承の機能としてはある種の職掌集団に関係付けられる始祖伝承や仕事の由来譚などと良く似ているような気もします。

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夫人の耳から盤瓠が生じたという伝承は私が翻訳したヤオ族の神話にはない要素ですが、ヤオの口承神話でこのモチーフが全くないかどうかはわかりません。
またこの耳から生まれたということは盤瓠の聖性を強調するモチーフと言えるのか、ちょっと難しいですね。

しかし、ざるの中での異常成長や五色の毛並みなどははっきりと盤瓠の聖性を強調するモチーフだと思われます。瓠の種を入れるざるの中で成長したというのは、単なる名前の由来というのに留まらず、南方少数民族の洪水神話で瓠が非常に大きな意味を持っていることと関係があるかもしれません。

またもちろん「盤瓠」という名前は開闢の巨人「盤古」とも関係がありそうです。「pangu」という音が「原初」にまつわる何か、ということなのか?

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王女との結婚の下りもいろいろなヴァリアントがあります。例えば犬が篭ってもう少しで人間に成れるところだったのに途中であけてしまったので失敗してしまったとか。
しかし『捜神記』では単純に王女が犬についていったという話になっていますね。毛織物は文化的なものとは見なされないようですね。

三年で男女六人ずつの子供を生んだというのは、動物の多産を表しているでしょう。その子供達がそれぞれ結婚する。近親相姦型始祖神話の要素もあるということです。

その後子供達は木の皮を紡いで織り五色の服を着るとありますが、これは綿花や生糸に対してやはり野蛮な着物という位置づけなのでしょう。
あと「五色の着物」というのも単に盤瓠の子孫だからというよりも、漢民族的な意味での五行の混乱した状態を表現しているような気もします。

蛮夷について述べた最後の部分は漢民族から見た異民族観をはっきりと表す部分です。普通に読むと特に野蛮だとも思えないのですが。

「赤髀」とはふとともを出していることを表しているようです。
「横裙」は短いスカートか?と註には書いてあります。

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この伝承は中国神話の本には必ず引用されるものなので何度も読んでいるはずですが、改めて書き写してみると「服装」に関する記述が妙に多いことに気がつきます。

つまり服装が異なっていることが文化と自然を分けているということですね。
盤瓠とともに山に入った王女は「毛織物」を着ていき、子供達は「木の皮の織物」を作ります。どちらも栽培されたものではなく原料は野生のものから作られているわけですね。



服装の話で思い出されるのは、先に書いた蚕の話です。

馬娘婚姻譚と犬祖神話が比較されることはほとんどないと思いますが、実は良く似た発端を持っていますよね?

「人間がした約束を動物が履行して、人間と結婚する(結婚を要求する)」ということですが、これが犬と馬という家畜であるということも共通しています。

しかしその結果生じたものがある意味ではとても対照的ですね。
女×犬=動物のような人間
女×馬=文化的な動物

もちろんかたやしっかりとした婚姻譚で、かたやどちらかといえば変身譚ですからいろいろ考慮しなければならないことは多いと思いますが、意味のある比較だと思います。

『捜神記』 馬娘婚姻譚

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昔から伝わる話である。

大昔、ある大官が出生して家には娘一人だけだった。この家では牡馬を一頭飼っていて娘が世話をしていたが、寂しいので冗談を言った。「お前がお父様を迎えに行ってくれたら、結婚してあげる」

すると馬は手綱を引きちぎって走り去った。馬は一目散に父親のところへ行った。父親は馬を見て驚き喜んだが乗ってみると、今北方角を向いてしきりに悲しそうに泣くので、父は家に異変があったのかもしれないと考えて、そのまま家に帰った。

父は畜生の身でありながら真心があると感心していたのだが、娘を見る馬の態度がおかしいので娘に尋ねた。娘が事情を話すと父は家の恥になるから他言しないようにと注意し、石弓で馬を射殺し皮をはいで庭に干した。


ある日父親が外出している時に娘は隣の娘と庭で遊んでいたが、馬の皮を踏んで「畜生の分際で人間を嫁にしようとするなんて殺されて皮をはがれるのも当然だ」と罵った。すると馬の皮が突然娘を包み込んで飛び去っていった。隣の娘は父親に知らせたが、帰ってきたときにはもう姿はなかった。

その後、数日してから庭の大木の枝の上に、娘と馬の皮が発見された。どちらも蚕と化して糸を吐いていた。その繭は普通の蚕とは違って糸の捲き方が厚く大きい。隣の女房が育てたところ通常の繭の数倍も糸が取れた。そこでその木に桑と名づけたが、桑とは喪の意味である。

それから農民達は競ってこの品種を育てるようになった。今の農家が飼っている蚕がこれである。桑蚕と呼ぶのは伝説の蚕の名残をとどめているのである。


『天官』を調べると「辰星は馬である」。また『蚕書』には「月がちょうど大火星のところに来た時に蚕の卵を川の水で洗う」とある。これは蚕と馬が同じ気から出来ているためである。また『周礼』(夏官馬質)には人の職業を述べているところで、「一年に二度繭を作る蚕を飼うことを禁止する」とあるが、注によると「二つのものが揃って大きくなるということはありえない。年に二度繭をつくる蚕を禁じたのはそれが馬を害するからである」。


また漢代の礼制(『後漢書』「礼儀志」など)によると皇后が手ずから桑の葉を摘んで蚕神を祀ったという。蚕神の名は「�惷�凭(えんゆ)婦人」「寓氏公主」という。公主とは夫人に対する尊称である。�惷�凭(えんゆ)婦人は蚕の先祖である。だから今日でも蚕を娘と呼ぶ人もあるがこれは昔から伝えられている呼び方なのである。

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日本の東北地方にも伝わる所謂「馬娘婚姻譚」による蚕の起源伝承です。蚕については以前何回か書いたことがあります。それをまとめた記事がこちら。→中国版日本版

しかし馬娘婚姻譚に真っ向から取り組んだことはありません。異類婚は私の研究テーマの一つなのですが。

まあそれはなぜかというと、この伝承が本当の意味で「婚姻譚」と言えるかどうか疑問に思っていたからです。『遠野物語』のオシラサマ由来伝承が「馬娘恋愛譚」であることは確かですが、その原話かとも目されているこの『捜神記』の伝承では馬が一方的に娘に懸想する話ということになっています。

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しかし考えてみると結婚していないからといって、婚姻譚とは比較できないということはありません。ただ異類婚とだけ比較するだけでは不十分そうですね。

「馬と娘と蚕の伝承」「馬と娘の伝承」「馬と蚕の伝承」「娘と蚕の伝承」あたりと構造的な比較が必要になります。

「馬と娘と蚕の伝承」はこの「馬娘婚姻譚」が主たるものですが、「蚕の本地」の民間版にもあります。「本地」民間版は婚姻・恋愛が付随しませんが、馬が娘を助けることと娘が死後蚕になる死体化生という点で「馬娘婚姻」型と共通性があります。
またかつて江南の田舎で祭られていたという「馬頭娘」は女性の像に馬の皮を巻いた騎馬像、あるいは馬の傍らに立つという像だったといいます。「馬娘婚姻譚」と関係があると思われます。

「馬と娘の伝承」は私の資料にはほとんどないようです。馬はいたって男性的な動物ですから、逆に言えば婚姻恋愛が絡まないと女性との接点はないのかも。

「馬と蚕の伝承」は山形出身の祖母に聞いた話があります。逃げ出した馬の足跡に蚕が残されていて、飼育を始めたという話。
詳しいことは全くわからないのですが、馬がいなくなって蚕が残されたというのは「馬娘婚姻」型と同じです。ロシア民話学風に言うと、馬を喪失して、蚕という形で回復したということになるでしょう。馬と蚕は等価ということになります。

「娘と蚕の伝承」ですが、「女性と蚕」ということならば。古代蜀国開祖蚕叢を除けば中国の蚕神・起源伝承は全て蚕と女性の関係性の強さを物語っています。黄帝の妻螺祖・「厠の神」紫姑・民間伝承の織女など。日本では「犬頭糸」伝承も「妻」ですね。
しかし「娘」ではありません。「妻と蚕」の伝承は、男性が形成する「家」にとって「妻」の持っている「異界性」「外部性」「他者性」と関係があるのかもしれません。


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さて以上の分析を踏まえて「馬娘婚姻譚」そのものの分析に戻りましょう。

伝承では父親は遠方に行っていて、娘が「一人で」残されていますね。つまり息子はいない家庭なのです。その娘しかいない家に馬が残されている。この状態は「家」としては実は不毛な状態です。遠野のオシラサマ由来譚では父親が家にいますが、それでも確か一人娘だったと思います。
「不毛」とか唐突に思われるかもしれませんが、家が存続しないという意味での不毛です。中国的な厳密な男系主義においては婿養子もとれませんから「一人娘」というのは本当に厳しい。

一方馬は乗るにしても農業用にしても男性が用いる動物だと思われ、男性性の強い動物です。少なくとも女性が日常的に馬を使用するというのは日中ともになかったでしょう。上のまとめでも書きました。

もう一つの蚕の起源である螺祖は黄帝の妻ですが、黄帝がある意味で「原初の男」であるのに対して、その妻は「原初の女」であって、その螺祖が養蚕の祖であるというのは自然です。
しかし一人娘の家に馬がいても意味がない、そういう感覚があるのではないかと思いますが、どうでしょう?馬も蚕も家畜ですが、かたや男性性の強い家畜でかたや女性性の強い家畜です。「男のいない家の馬」と「蚕のいない家の一人娘」というのは実はどちらも不毛な存在です。

さてそんな不毛な状態から物語が始まるわけですが、神話的に言えば混沌の状態が秩序に向かって動き出すには契機が必要です。
それは『捜神記』では「娘の安易な提案」として、オシラサマ由来譚では「娘の過度な愛情」として描かれます。ここに日中の動物観の違いがあると言えますが、今の分析のレベルとは関係がないので不問にしましょう。

そして馬は殺され、皮をはがされます。皮をはぐことについては「そういうものだった」で済ませられるのか、象徴的な分析を加えるべきなのか判断できませんが、しいて言えば「馬の毛並みと絹の手触り」に共通性があるのでは?ということを考えたことはあります。
蚕と馬の関係についてはその動作の類似性から強調されることが多いですが、「馬の皮に包まれる」というちょっと特殊な姿は「繭に包まれている蚕」を表していると考えることが出来る。当然「馬=蚕」だけでなく「娘=蚕」でもあるというわけです。
単独では不毛な存在である馬と娘が婚姻というか融合することで、文化的経済的に価値のある蚕に変化するというわけです。

「馬の足跡」型蚕起源伝承は単純に経済的な意味での「馬と蚕の交代」の物語ですが、「馬娘婚姻」型の伝承は「不毛の馬と娘が蚕に変身する」物語ということで、「男性・動物・自然」と「女性・人間性・文化」が融合して「女性・動物・文化」という中間的な属性を持つ蚕の誕生を語っているわけです。

まあそんな計算みたいな図式が簡単に成立するとも思えませんが、所詮試論ですからこの辺で。実際に論文にするならば、じっくりと東北のオシラサマ伝承・養蚕起源伝承を分析してからでないとこの手の比較論は砂上の楼閣になります。

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ところで、男性性の強い家畜といえば犬もそうですね。そして『捜神記』には盤古神話も掲載されています。

そこでは犬と娘が結婚して、異民族の起源が語られますが、その異民族は「文化的ではない」「動物のようだ」と評されることになります。
つまり馬と人間が融合して文化的な動物がうまれ、犬と人間が結婚して文化的ではない人間が生まれたとしているわけですね。

以前も書いたと思いますが、異類婚の異類といってもそれぞれの動物に様々な属性が付与されます。
また異類婚の人間側にも社会的な地位(皇族とか)や宗教的な力を持つ(申し子とか)など様々な変数が考えられます。
そして異類婚の結果生じた子供・動物・儀礼・習俗・土地の名称属性なども様々でしょう。

切り口としても、特定民族の動物観或いは特定の動物に対するイメージを考えるか、「文化と自然」という構造的な普遍性をみるかがありえます。あと知識人か民衆かで差異もありそうです。



まあ以上のようなことは異類婚に限らず、人間と動物との交流が描かれる様々な神話伝説昔話の研究に必要な視点だと思いますけどね。

あんまり自分でも納得いかない分析になりましたが、今回はこの辺で。



(追記)

娘自体が蚕であるという伝承に触れるのを忘れていました。『山海経』と「蚕の草子」です。ともに以前まとめてあります。

つまり「馬と蚕」の伝承群と「娘と蚕」の伝承群はそれなりの数存在しているのです。それらが『馬娘婚姻』型に融合していったと考えることも可能でしょう。

『捜神記』 蛇と母親

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邛都県(四川省)に、貧乏な老婆が一人で住んでいたが、食事のたびに頭に角がある小さな蛇が寝台のあたりに出てくるので、食べ物を与えていた。

蛇は次第に大きくなり一丈余りになったが、県知事の良馬をこの蛇が飲み込んでしまったので、知事は老婆に蛇を出せと迫った。老婆は寝台の下にいると答えたが、掘っても見つからないので知事は老婆を殺してしまった。すると蛇は人間に乗り移って、「どうして私の母親を殺したのか。仇を討つ」と言ったが、それからは夜な夜な雷や風のような音がするようになった。

それから四十日ぐらいたって町の人たちが顔を合わせると皆が驚いて「お前の頭にはどうして魚が載っているのか」と聞きあった。その夜五里四方、町全体が陥没して湖となった。

土地の人々はそれを陥湖といった。ただ老婆の家だけは無事で今でも残っている。漁師達は魚を取りに出た時、必ずその家へ泊まる事にしているが、風がでて波が荒れたときでもその家にいれば問題はない。風がなく水が澄んでいるときは湖底の城郭や櫓が今でも見えると言う。

今水が浅くなった時には土地の人々は水にもぐって、昔の木を拾い上げるが、堅くて光沢があり色は漆のように黒い。近頃では物好きな人々がそれを枕にするので、進物として用いられている。

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これも全体的にみると土地陥没伝承ですが、幾つかのモチーフを含んでいます。

まず「角のある蛇」。当然『常陸国風土記』の夜刀神を連想しますね。また「蛇の異常成長」も『常陸風』「哺時臥之山」と共通します。

「人間が魚になる」というのは前にあげた土地陥没伝承にもありました。泉鏡花の『夜叉ヶ池』にも同様のモチーフが現れるようですが、日本にもあるものか、それとも直接『捜神記』などの中国古典からの引用かは不明。

「老婆の家だけは無事で漁師の避難所になっている」というのは面白いですね。またやはり「湖底に城郭や櫓が見える」という伝承が付随しています。
つまり実際に存在している湖に現れる現象の由来を語る伝承なのです。

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この伝承の最後の部分は蛇足のようにも見えますが、「沈水香木」のことを言っている可能性があると思います。「伽羅」とかも沈香です。

ちょっと調べてみましたが、もとは軽い木であるのに虫病気風雨などでダメージを受けた時には樹液を分泌して幹を守ろうとする。すると重くなって沈むようになるそうです。その樹液の乾燥した部分を削り取って香に使うとか。

この種のものは熱することで香を発するようですが、恐らく枕にしても少しは効果が会ったのではないでしょうか。生薬としては鎮静作用もあったようです。

『書紀』には推古天皇の時代に淡路島にこの手の香木が漂着したことがあったようですが、なんとも意味深な時代ですね。仏教的に。

奈良の正倉院には「黄熟香」別名「蘭奢待」という宝物があるそうですが、写真を探してみるとなるほど外側は黒い。「漆のようで」と伝承中に言っているのはこれでしょう。中国から9世紀ぐらいにもたらされたらしい、とのこと。

中国の沈水香木も調べてみましたが、「牙香樹」というのがあるようですね。
現在では雲南や広東広西などに分布。しかし古代中国の気候は現在よりも温暖湿潤だったようですから、四川省ならありえます。

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ところで水に沈んでいる木というと哀牢夷の民族起源伝承ですが、どこかの論文で「龍が変化していたという沈木は香木ではないか」と書いてあるのを読んだような気がするのですが、思い出せません。勘違いかも。

哀牢夷は龍の子孫ということになっていますから、沈木が龍であるということになります。となると大いなる循環が生まれるような気もしますが、適当な想像はこの辺にして置きましょう。

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それよりも四川省に関する古代の地誌で、この湖のことが書かれているのか?進物としてこの沈木が本当に記載されているのかを確認するほうが現実的ですね。

この地域は涼山イ族自治州西昌市のようです。
そこには〔エβ〕海というとても大きな湖があるようで、陥没湖であるという伝承が『漢書』辺りから書かれているようですね。また『益州記』という梁代の書物には、『捜神記』とほぼ同じ伝承が記載されているようです。

この湖の形成要因については現在も議論されているようですが、陥没の可能性は低いとか。考古学的な調査だけでなく地質調査とかしているのでしょうか。

ただしこの地域は地震がおきやすいところで、特に山に近いのでたぶん土石流なんかが良く発生するんじゃないかと思います。それで山から流されてきた木が湖に落ちて沈木になったと。

予想するのは簡単ですが、確かめるのは非常に難しそうです。

『捜神記』 断腸の猿

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臨川郡(江西省)で、ある時山に登った人が猿の子を捕えた。家まで連れて行くと母猿もついてきた。男は小猿を樹に縛りつけて見せると、母猿は自分のほほを叩き哀れみを請うような仕草をした。まるで「私は物が言えませんので」と言っているようだった。しかし男は小猿を殴り殺してしまった。母猿はそれを見て悲鳴を上げたかと思うと樹の上から身を投げて死んでしまった。男がその腹を切り裂いて見ると腸は一寸ごとに寸断されていた。

それから半年も経たないうちに男の家族は流行病で全滅した。

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「断腸の思い」という言葉の起源は『世説新語』と紹介されるのが普通のようですが、この伝承のサルも小猿の死を目の当たりにし、「断腸」して死んでいますね。

この「断腸」の猿ですが、これについては以前『中国のテナガザル』の感想で書いたことがあります。

中国では「猿」と「こう〔獣偏+候〕」は伝承イメージの上では全然違う存在です。尻尾の長い「こう」が完全に動物=理性のない野生の存在だと捉えられているのに対して、テナガザルの「猿」はむしろ非常に人間的な存在として捉えられているのです。伝承の上でも君子の比喩として現れたりする。

現代中国では日本語の猿は普通「こう」と書きます。テナガザルと尻尾の長い猿の区別はついているいないよう。
つまり、日本語で「猿」と訳出されている場合は「猿(てながざる)」の場合と「こう」の場合両方の可能性があるのです。

『捜神記』原文を確かめてみるとやはり「猿」、つまりテナガザルの話ということで問題ない。

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リンクの本の作者はR・H・ファン・フーリックというオランダ人ですが、翻訳者である中野美代子先生も「猿」と「こう」の違いについては『西遊記』の研究などで言及していたと思います。

それにしてもこの動物分類に対する厳密さ、どこかレヴィ=ストロースの神話の構造分析を思い出させますね。

動植物の分類学というのは古代より現代のほうが進んでいると考えるのが普通ですが、学者でもない限りそんな詳しいことは知りません。というかある種の動植物については古代人のほうがよりはっきりと認識していたというのは確実なことです。
『万葉集』に登場する花の写真を見せられて、「今の名前でもいいから答えて」と言われたとしたら、全部答えられる人は非常に少ないでしょう。私とか理科の授業は成績良かったですが、ほとんどわかりません。

このサルについてもそうでしょう。現代中国人は既に区別できなくなったサルをしっかりと区別しているわけです。

※まあもちろん間違った伝承も多いです。「亀には雄がいない」とかね。※

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この「断腸の思い」というのは確実にテナガザルの「人間的な側面」=「動物的ではないこと」を強調した故事成語ですね。

ということは、この話の結末「小猿を苛め殺した男とその家族が一年で死んでしまった」というのは「猿」の「動物的な性質」や「野生性」から発したものではなく、むしろ「人間的な性質」から発したものだと考えるべきでしょう。

ここで野性と文化を両極にとって、などとやろうとすると類話の収集が必要になるので止めておきますが。

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それにしても動物の変化や怪異がある種「そういうもんだよ」で通ってしまう中国の動物観はやはり非常に厄介です。「道理のある変化」ということは「混沌」=「野生性」の表出ではなくて、あくまでも「秩序内」ということですからね。

先に書いた孔子の言葉に「変化は道理だが殺したら止む」というのがありましたが、今回の話は「殺したので始まった怪異」ですね。
変な分類かもしれませんが、考えてみると人間の霊魂や情が起こす怪異も死んでから始まるのが普通ですね。

この二つの場合で怪奇譚を分類すると、何かわかるでしょうか?正直あまり期待は出来ないですが、ちょっと楽しそうでもあります。
『捜神記』をもう一度読み返すのは正直だるいですが、次回説話集を読むことがあったらチャレンジするかもしれません。まあおぼえていたら、ですが。

『捜神記』 忠犬と大蛇

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大興(東晋)年間、呉に華隆という男がいたが利口な犬を飼っていて的尾と呼んで何時も連れていた。

ある時隆は荻を刈りに出かけたが、大蛇に捲き疲れてしまった。すると犬が飛び掛って蛇を噛み殺した。隆は倒れて意識がない。犬は船まで橋って帰り船の中の人を呼んで隆を助けた。人々は隆を家に連れて行ったが、隆が目を醒ますまで犬は餌を食べなかった。

その後隆はますます的尾を愛して肉親のようであった。

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飼い犬が命を救ってくれたという話。
まあそれだけならばたいしたことはありません。

しかしこの手の忠犬伝承は日本にも結構あります。
私の故郷にも城主が大蛇に襲われそうになっていたのを犬が助けたという話がある。

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殿様が狩に行って、疲れたので木陰で休んでいると突然可愛がっていた飼い犬が殿様に向かって吠え出した。
飼い主に吠えるとは何たる無礼、と殿様は刀で犬の首をはねた。
すると犬の首は殿様の後ろにあった木のほうに飛んでいって、殿様をねらっていた大蛇に噛み付いた。大蛇が殿様をねらっていたので、犬は吠えたのだった。
殿様は飼い犬を手厚く葬り犬塚を作った。

とまあ、こんなお話です。

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犬が飼い主に吠え掛かるとか、首を切られたのに蛇に噛み付いたとか、華隆の伝承にはこれらの特徴的な要素がぬけていて、単純に飼い主を守った話になっています。
しかし大蛇から助けるというのは共通している。

人間が大蛇に巻きつかれるというのは現実問題としてどのぐらい発生するものなのか正直わかりません。呉は南方ですから結構大きな蛇もいるでしょう。たぶん毒蛇も多いと思います。だから現実に全くないとは言えないと思いますが、でもやはり稀でしょう。

つまり犬が蛇にに襲われた飼い主を助けるという忠犬伝承はある程度型にはまったものなのではないかと思うのです。

となれば中国でも日本の類話と同じようなモチーフを持った伝承が存在しているんじゃないか、というのが私の予想です。

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先にまとめた犬の怪異のところで「野生動物の怪異と比べて何か情けない」と書きましたが、神話においては漢族でも犬が大きな役割を果たすことはあるわけです。日月食神話とか。

なのでこの手の忠犬伝承をもっと集めてみると漢族の犬に対するイメージの輪郭というのがわかってくるような気がします。

『捜神記』 動物報恩譚 虎・鶴・雀

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虎の恩返し。出産の世話が上手だった女が虎にさらわれ雌トラの出産の手伝いをする。虎は家まで送ってくれた。その後何度も獣の肉が家に届けられるようになる。


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鶴の恩返し。矢で傷ついた黒鶴を助けると、その後つがいでやってきて光る珠をくれる。


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黄雀の恩返し。傷ついて落ちて虫に苛められている黄雀を助ける。ある夜黄色い着物の少年が現れて自分は西王母の使者だったがお使いの途中でミミズクに襲われたのだと言い、白い玉環を四つくれ、子孫は出世するといった。

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狸のところで「動物報恩譚は少ないのかな?」と書いたのですが、まとめられていました。

報恩というとどうも道徳的で仏教的な説話な説話なのかと思っていましたが、そんなことは全くなかったようですね。

『捜神記』 動物報恩譚 龍蛇

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晋のころ魏郡(河南省)で旱が続いたので百姓たちは龍の住んでいる洞窟にいって祈ったら雨が降ってきた。感謝の祭りをしようとしたが、孫登がこれは病気の龍が降らせた龍だから穀物が復活することはないという。確かにその雨水は生臭かった。

龍は背中に大きなできものができていたが、孫登の言葉を聞いて一人の老人に姿を変えて治療を頼みにきた。治療が住むと数日も経たぬうちに大雨が降ってきて、さらに大石が割れて井戸が現れた。この井戸は龍がお礼の印にほったのだろう。

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雨乞い伝承でもあり、報恩譚でもあります。そして井戸の起源ですね。こういう伝承は日本にもあるでしょう。


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隋県(湖北省)を流れる〔シ差〕のほとりに断蛇丘という丘がある。昔、隋侯(周諸侯の隋)がこのあたりに来た時、大蛇が傷を負って胴をきられているのを見て、家来に命じて薬を塗り包帯をしてやった。それでここを断蛇丘という。

それから一年後蛇は明るく光る珠をお礼の印に銜えてきた。珠は直径一寸、純白で夜になると月光のように明るい光を放つ。隋侯珠・霊蛇珠・明月珠と呼ばれる。

丘の南には隋の大夫李良の池がある。


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こちらは大蛇ですが、珠を送ります。龍蛇伝承と珠と言えば日本では「三井の晩鐘」などもあります。

この珠は実は「和氏の璧」と並ぶ中国史上最高の部類にはいる至宝だそうです。まあ現存はしていないと思いますが。

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巣県(安徽省)に揚子江の水が堰を切って流れ込んだことがあったが、水が引いたあとに残った水溜りに重さ一万斤もありそうな巨大な魚が取り残され三日たって死んだ。郡民は皆これを食べたが、一人の老婆は食べなかった。

すると不意に老人が現れて、その老婆に「これは私の息子だった。お前だけ食べなかったのでお礼をしよう。町の東の門にある亀の石像の目が赤くなったらこの町は陥没する」と言った。

老婆はそれ以後毎日東門の亀像を見に行ったが、町の子供はわけを知ると、老婆を騙してやろうと亀の目玉に朱を塗りつけた。老婆は慌てて町から逃げ出したが、そこへ青い着物を着た子供が現れ、自分は龍の子だといって手を引いて山に登った。やがて町は陥没し湖となってしまった。


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土地陥没伝承ですが、一人だけ助かったというものですね。石亀です。
魚が龍王の子供だったと言う話も結構ありますね。

『捜神記』 疫病神

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顓頊氏には三人の息子がいたが、三人とも死んでから疫病神になった。一人は揚子江に住み着いて瘧の神となり、一人は若水(鴉竜江の旧名。青海省から流れる川であるが伝説の河か)に住み着いて魍魎となり、一人は人の家にすみついて子供に引きつけや夜泣きを起こさせる小さな化け物になった。だから正月には、方相氏(太古の官名。後に民間で方相神として民間信仰の対象となる)に命じて追儺の儀式を行い、疫病神を払うことになった。

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顓頊の息子が疫病神になったという伝承です。

上二人は疫病神でもあり、川の神でもありそうです。一人は南部、もう一人は北部、三男は家の子供の病気の神。何故疫病神になったのかとかそういう理由は一切ありませんね。

日本では疫病神というと牛頭天王あたりが思い出されますが、牛頭天王は疫病にかからない方法も伝授します。「武塔の神」伝承と良く似た話は中国民間の端午菖蒲伝承にもあるので、ことさら日本的ともいえません。

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むしろこの伝承の肝は追儺と方相神の起源でしょう。儀礼起源伝承です。

方相は追儺儀礼では四つ目の面であらわされますが、『詞典』によれば『周礼』に既に「黄金の四つ目」とあるようです。疫病を払う神であり、葬儀で使者を送る神であり、道を開く神でもある。
出典は不明ですが、黄帝の妃螺祖が死んだ時、次妃〔女莫〕母が方相氏となって送ったという伝承があるようです。起源伝承と言うわけでもなさそうですが。

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この追儺、方相氏が鬼祓いの役をやるのは日本も同じなのですが、『荊楚歳時記』では十二月八日に金剛力士が疫病を祓うとあります。仏教化、ということなのでしょうか。

十二月八日と言えば日本では事八日。一つ目小僧やみかわり婆さんなどの妖怪が徘徊する人も言われているわけですが、疫病祓いとの関係がどのぐらいあるのかは不明。

でも日本では病気祓いと言えばやはり夏の行事だと思いますけどね。

『捜神記』 小人と鼠

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豫章(江西省)のある家で、女中が竈の前にいると、身の丈数寸の小人が現れたが、女中がうっかり踏みつけて一人を殺してしまった。すると数百人の小人が現れたが、一人残らず麻の喪服を着て、棺桶を担ぎ、葬列を組んで、葬儀の道具も全て揃っている。そして東門をでて畑の中にひっくり返してあった古い船の中に入っていった。そばへ寄ってみると小人を見えたのは全部雌鼠であった。女中は湯を沸かして注ぎかけ殺してしまったので二度と怪異は起らなかった。

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小人だと思ったら鼠だった、という話。

中国の小人譚はこれや慶忌のように、人間と同じようななりをしたものと、山や樹木の精霊のようなものの二種類があるようですね。

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そして、ネズミ達を殺してしまうと怪異が止んでしまう。

日本だと、「動物を殺してしまったら、怪異が生じた」となりそうなのですが、どうでしょうね。

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