柳田國男「餅白鳥に化する話」(『一つ目小僧その他』所収・初出は大正十四年一月、東京朝日新聞)

・秦公伊呂具。「粟米充ちて」。「鳥部野・鳥部山」も餅の鳥が飛んで来たから名づけられた地名。
・福島県苅田嶺神社-近世期の学者によって日本武尊を祭るとされたが、地元口碑では満濃長者と同系の物語。天子の寵愛を受けた玉世姫とその王子に対する母子信仰で、その神の使いが白鳥=スワン。
・豊後田野長者の古跡=山間の草原には以前毎年二羽の鶴が飛来していたが、それは長者の飼っていた鶴だったという。
・柳田:『豊後国風土記』と連想した者もいたかも?
・柳田:山城の稲荷社起源と『豊後国風土記』事例では、文体から見ると山城事例の方が古いので、「稲荷」→「豊後」の可能性はある。
・しかし「豊後」事例も根強く、「年を追うて成長して居る」。
・より古い時代に、民族共通の観念があり、それが後世に「そちこちに、芽を吹き花を咲かせる習わしであったのではないか」。
・玖珠郡飯田村「千町牟田」は田野長者の跡地か?『風土記』には「速見郡田野里」とある。
・玖珠郡は、速見郡から見ると、分水嶺を西に越えた筑後川水系にあたる。
・速見郡の方にも、南北由布村のようなムタ=牟田=水湿地はたくさんある。
・「ムタ」は、関東東北では「ヤチ」、中部では「クゴ」「フケ」と称し、排水の難しい平らな湿地の事。
・海川に近い低地なら水田にできるが、山中では湿度其他の条件が水田に適さず、打ち捨てられて、禾木科の雑草が自生するのみ。
・農民たちはそれを見て、「神の田」「天狗の田」などと呼んだ。
・『豊日誌』には「千町牟田」について、畦畝は今も存在し、畝ごとに色々な色の雑草が生える、禾苗=稻の苗が実っているようにも見える、とある。

・因幡「湖山の池」-湖山長者。日招きの天罰。
・飛騨白川郷「帰雲城」
・津軽の十三潟、信州青木の三湖…釣鐘淵伝承?
・「自然の風光を力杖として、よろぼひ立つている忘却の翁である。」
・「稲荷の三つの御山の頂上に近い平地に、最初は稲に似た或種の植物の繁茂する霊地があって、これへ往来する白い鳥の姿を、高い国からの御使の如くに感じた人々が、やがては餅と鳥との昔話を拾い上げて、之を我家文の綾に織込んだのでは無かったかとも思われる。」
・『豊後風』「豊国地名起源」・鳥-餅-芋。
☆「事に依ると此時代の人の心持に、白い鳥は至つて餅に化し易いもの、若くは餅は往々にして飛去ることありと云ふやうな考へが、何と無く挟まつて居たのかも知れぬ。」
・近世の子守歌「縁があるなら飛んで来い牡丹餅」。
・手鞠歌「餅にこがれて逐って行った」。
・「鼠の浄土」-団子
・『塵袋』巻九(※『豊後風』逸文)-「古風土記を見て書いたというが、郡の名称が違い、内容も後世の言い伝えに近い」。
・しかしなぜ餅が飛び去って長者が没落したかの説明はあの時代の人の考え方と見て良いと思う。「即ち餅を以て的とするなどは、唯の奢りの沙汰として神の憎しみを受けるのみでは無い。餅は元来福の源である故に、これと共に福神が飛去ったのだと謂つて居る。」
・『塵袋』の著者の時代には福引というのは餅を二人で引き合うことであった。二つに割れたとき大きい方を得た者を勝者として、其年は福が多いなどと言ったか。
・餅をフクダと呼ぶのは、焼けば膨れるからの名。それを福の物と考えるようになったのは中世以来の習わし。それに刺激されて、「餅の的」の話がほぼ元の形で今日まで保存されてきた。

・餅が化した白い鳥は「白鷺」か?
・宮古島エイ女房-海宮訪問・瑠璃壺獲得-瑠璃壺からは長寿を得る酒が湧くが、噂が立って壺を見に来る人が増えたために、男は「味が同じで飽きたから、もう飲みたくない」と嘘をつく。すると壺は白鳥に化して飛び去る。群衆はその鳥に我の方に飛んで来いと招いたが、鳥は東の宮原村の方へ飛び、ある家の庭の木に下りて姿を消したという。
・「さうして沖縄の島に於ては、鷺を神の使いとした話が別に伝はつて居るのである。」
・「次良(じら)の婿入」(「隣の寝太郎」・『宇治拾遺物語』「博徒婿入」系統の話)
次良は長者の信心に付け込み、夜ひそかに一羽の白鷺を抱えて、庭の木の茂みに攀じ登り、「娘の婿に次良を迎えよ」と神の作り声をして命令した後に、其鷺を放したので、長者は騙された。「即ち、神が鷺の姿で天に還りたまうと信じたものである。」
・鷺を神使とする信仰-摂津住吉、越前気比。諏訪・白山にも鷺を祀った末社がある。尾張熱田神宮でも、神領の民は鷺を白鳥と呼んで、忌み且つ崇拝した。
・「桶狭間の戦い」に当って、信長が戦勝祈願をしたところ、社伝から白鳥が飛び出し、今川の陣場近くの森の木に止ったという。その森を「鷺が森」と言い、石塚に記念碑が立っている。
・関東等には、上述の大きな神社の伝承とはまた異なる、無数の「鷺の森明神」「鷺の宮」がある。祭神・信仰は現在では画一的ではないだろうが、祭祀の初めは似た信仰を背景としていたか?(鷺を福の神と見る信仰?)
・滝沢馬琴『化競丑満鐘』では白鷺は化物界の家老格。
・鷺が化けた話は多いが、比較的新しいか?
・声の恐ろしい「五位鷺」との混同、苗代を荒して追われる、目付きが悪い等の悪印象から化物化したか?
・鷺は挙動が落ちついていて、いつも同じ場所を行き来したり、食物を漁る姿が印象的であり、朝夕に神社の森などを出入りする姿が注意を引いたか?しかし普段と異なる場所に集るなどすると、何か悪いことの兆候などと考えられて、不吉なイメージが生じたか?
・豊後の人々は例の「餅の鳥」を白鷺と決めていたらしい。三浦梅園『豊後事跡考』では餅の化した白鷺は、大分郡河南の庄内に止ったという。『豊薩軍記』では白鷺は朝日長者の福神であったが、飛去った後は長者の威光次第に減じたと述べている。
・豊後の長者譚には宇佐八幡信仰の影響が強く、八幡を農作の愛護者としている。
・諸国の田植歌に「白鷺のとまりはどこぞ八幡山(やはたやま)云々」というのが多く歌われいる。
・武蔵府中の六所様、五月五日の大祭翌日に「御田植」という神田の祭がある。楓の若葉で飾った傘鉾の上に白鷺の形を作り、それを田辺に立てる。それを回って古風な歌を唱え、太鼓を打って囃す。「即ち神の森から神の田へ、暁に出ては夕に還る此鳥の習慣を、やはり神霊の去来の如く、此地方の人々も感じて居たらしいのである。」

・「餅なし正月」の一つ、石見那賀郡川波村大字波子の事例。
・『石見外記』「昔此村に富豪あり、其家の息子、正月に破魔弓の遊びをする折節、的が無かったので、歳徳の神に供へてあった鏡餅を廻して射たところが、不思議なるかな其鏃に血が附いた。此神罰であつたか。其年からして餅を搗けばいつも凶変が有るので、終に正月に餅をせぬことになつた。此一族を的場党と呼ぶさうだ云々。」
・この話が山城か豊後の風土記を見てから出来たものであったら、白い鳥を略してしまうわけはない。そうだとするとずっと古くから此類の口碑が、広く諸国に保存せられて居たのである。
・古い記録にはないが、『豊後事跡考』には「田町長者一千町の田あり、一人の姫に聟を迎へたが正月破魔弓の遊びに興のあまり、鏡餅を投げて之を射たれば、其餅白鷺に化して飛んでしまったとある。」
・「ハマ」…初春の遊戯。
関東以北では弓で射るのではなく、転がるハマを木の枝・竹竿などで止める遊びで、ハマを路上に転がす方法と空中に投げる方法の二種がある。
・雪深い所では空中に飛ばす。アイヌでも行われていた。
・京都以西は小弓で射止める。少年たちが並んで、転がり弾むハマを射る遊び。危険なので、先に都市部では禁止され、田舎でも後に破魔弓ばかりが飾り物として残るのみになった。
・全国各地の村境、神社に関係ある土地の名に、「浜射場」というものが多いが、諸国の神社の春祭に「歩射(ぶしゃ)」「百手(ももて)」なる的射の勝負によって一年の縁起を祝い、諸願成就を占うために行う切れがある。
・この役を務める特定の家筋もあったか?
・ハマは「[金丸]」とも書き、金属の輪で作るものもある。関東では径五六寸の円盤を用い、ハンマ・ハマコロなどと呼んでいる。
・東北では柳の枝などを輪にする。
・大和の山村や備後では縄を巻いて釜敷のようなものを作る。藤蔓もある。
・土佐では円盤ではなく、小提灯の形で紙を貼り、武家の青年がこれを飛ばして射芸を習う。
・肥後五箇山では球状のものを高く放り上げ、鑓で突き止め、猿を取る練習だとする。高砂族にも似た風習がある。
☆「稲荷の秦氏の餅を的としたのも、今風に射垜(※あづち)に置き又は樹の枝に吊るしたのでは無く、斯うして高く投げて居るうちに、ふいと鳥になって飛んでしまつたから驚いたのであるらしい。」
☆「石見の餅を搗かぬ一族が、的場党と呼ばれて居ることは、又次のやうな想像をも可能にする。彼等の祖先は寧ろ餅をハマとして、弓占をする職業であった。それが何かの異変があってから、此式を中止して其話だけが残つた。さうして他の多くの餅を搗かぬ家々と同じく、此家に於ては餅は神聖の物なる故に、最初から忌んで居たのであろう。」
☆「山城豊後二國の類例も、事によると白い鳥の奇瑞に由つて、餅を射る古い儀式を中止しただけではなかつたか。それが奢りの沙汰なる故に、神の罰を受けたと云う説明は、的射の行事の至つて神秘なものであることを忘れてしまつた外国風の考へ方のやうにも感ぜられる。」

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「餅の的」説話を真っ向から論じた研究は多くありませんが、柳田國男「餅白鳥に化する話」はその一つです。

上に挙げた箇条書きは「餅白鳥に化する話」を要約したもの。
当然自分用なので可能な限り端折っていますが、これまで上げてきた三つの「餅の的」説話関連記事を読んだ上でなら、何となくわかるのではないかと思います。

各章の内容を簡単にまとめると、以下のような感じでしょうか?
「一」豊後国の「不毛な土地」について。
「二」「餅」について。
「三」「白鳥」=「白鷺」について。
「四」正月・初春の「弓矢遊び・弓矢儀礼」と結論。

さらっと近世期の随筆類を引用し、台湾プユマ族の打猿祭にまで言及しているあたり、「流石柳田博覧強記」と頷きたくなる内容ではあります。

一方で、幾つか「☆」で引用した部分。
そこは柳田自身の考え=推論だとみなせる部分ですが、紹介されている数々の民俗事例からはだいぶ飛躍があるということがわかると思います。

☆「事に依ると此時代の人の心持に、白い鳥は至つて餅に化し易いもの、若くは餅は往々にして飛去ることありと云ふやうな考へが、何と無く挟まつて居たのかも知れぬ。」

☆「稲荷の秦氏の餅を的としたのも、今風に射垜(※あづち)に置き又は樹の枝に吊るしたのでは無く、斯うして高く投げて居るうちに、ふいと鳥になって飛んでしまつたから驚いたのであるらしい。」

☆「石見の餅を搗かぬ一族が、的場党と呼ばれて居ることは、又次のやうな想像をも可能にする。彼等の祖先は寧ろ餅をハマとして、弓占をする職業であった。それが何かの異変があってから、此式を中止して其話だけが残つた。さうして他の多くの餅を搗かぬ家々と同じく、此家に於ては餅は神聖の物なる故に、最初から忌んで居たのであろう。」

☆「山城豊後二國の類例も、事によると白い鳥の奇瑞に由つて、餅を射る古い儀式を中止しただけではなかつたか。それが奢りの沙汰なる故に、神の罰を受けたと云う説明は、的射の行事の至つて神秘なものであることを忘れてしまつた外国風の考へ方のやうにも感ぜられる。」

柳田は過去に「餅を射る儀礼」が存在していたと考えていたようですが、果してそんな儀礼がありうるのか?

・・・私の考えを先に言うなら、多分なかったと思います。

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弓を射る儀礼について、柳田は「ハマ」と呼ばれる儀礼を挙げています。
・・・この「ハマ」は「破魔矢」の「破魔」ではないのか?もしそうなら、魔を祓う意味があるのだから、餅を射たらダメだろう、と思うのですが?
「破魔」ではない、原義は別にある、というならわからなくもないですが。

「ハマ」以外に「歩射(ぶしゃ)」「百手(ももて)」という儀礼名も挙げられていますが、私自身がわかりやすいのは「歩射(ぶしゃ)」です。
まあ、私の故郷・関東では「オビシャ」という名称が普通ですが。

そのオビシャについて、ネット上で少し論文を探して見たところ、次のものがヒットしました。
鈴木通大「オビシャ行事をめぐる諸問題-関東地方における事例を中心に-」(『神奈川県立博物館研究報告-人文科学-』第21号・1995年3月)

この論文には関東地方各地に伝わる「オビシャ」行事の概要をたくさん紹介しています。
ざっと読んだ感じでは「的を射ることによって年占をする」という説明をしている事例が多いでしょうか?
中には「的に当たるまでやる」ものもあるようなので、その場合は占いというより、予祝儀礼に近くなる気もします。良い結果になるまでやるわけですから。
的には「鬼」の字や絵を書いて「魔を祓う」意味を込めるものもあるようですが、一方で「烏」と「兎」を描いて射る事例もあるとのことです。「烏と兎はどちらも畑を荒らす害獣だから」という説明もあるようですが、「烏」は太陽を、「兎」は月を象徴していると見て、その死と再生を願うという解釈=「太陽新生説」を説く研究者の説も紹介されていました。射日神話とも関係します。

当然ですが、この論文に載る関東の事例においては「餅を的にする」ものはありません。
というか、柳田の時代に見つけられなかった儀礼が、今現在発見されるなどということもまれなのでは?という気もします。

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そもそも「弓矢」とは何か?
一義的には「狩猟の道具」。次に「敵に対する武器」でしょうか?
矢を放って的に当たったかどうかで吉凶を占うというのは、前者のイメージから発していると言えそうです。当たって獲物が獲られれば確かに良い。
後者のイメージが強ければ、魔除け・破魔を表すでしょう。
しかしどちらにしても、基本的に「弓矢」は対象を「殺傷」する道具であるということは確認しておく必要があります。

「的」の方は、「弓矢」の意味によって性質が変わるでしょう。
「占いの的」ならば、「当たれば吉」なわけですから、当然的も縁起の良いモノになります。
「魔除けの的」ならば、「魔」を表すわけですから、悪いモノということになる。

「的」自体には良し悪しはなく、その性質は儀礼中の「弓矢」の意味に依存しています。
上掲「オビシャ」論文に紹介された各地の事例には、儀礼で用いた弓矢・的を縁起物として、取り合って持ち帰るものが幾つかあります。しかし「弓矢」と「的」どちらも縁起物とする事例と「弓矢」のみを縁起物とする事例はあっても、「的」のみを縁起物とする事例はありません。「的」の意味は儀礼の内容によって異なるからです。

では「餅」は?
一、食べ物。二、神への供物。

幾つかの「餅の的」説話の事例がいうように、それが正月のことだったというなら、その餅は確実に神への供物です。ならば、その餅を弓矢の的とする行為は「食べ物を粗末にした」というだけに止まらない。神の供物を粗末に扱うならば、それは神に対する冒涜に等しいからです。

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柳田が想定していた「餅を射る儀礼」は、供物としての餅ではなくて、既に神前から下げられた、「鏡開き後の餅」だった可能性はあります。

鏡開き後の餅を使った占いは存在します。
千葉県流山市の「ぢんがら餅」です。

「ぢんがら餅」は三輪茂呂神社で正月八日に行われる神事。
クライマックスの「餅取り」では、上三升、下八升の糯米で作った供え物の鏡餅を、多くの男たちがつかんで奪い合って引張り、その割れ方で一年の豊作を占うというものです。
私も一度見学したことがありますが、だいぶ巨大な餅で、引きちぎるのも一苦労という感じでした。
割れた餅は、それを食べると病気にならないと言われて、男たちに配られます。

「餅を力任せに引きちぎって占いをするのがいいなら、餅に矢を放って占いをしても良いではないか?」という発想もあるかもしれません。

ただ、wikiによると「鏡開きで餅を割る時に、その割れ方でその年の豊作不作を占う」ということは他の地域でもあるようです。「ぢんがら餅」はその鏡餅を巨大にして、村レベルの儀礼としたものだと考えられますから、「神への供物を冒涜した」などという見方は当たらないでしょう。

wiki「鏡開き」によると「鏡開きの時刃物を使わないのは切腹を連想させるからだ」とありますが、他にも「年神と縁が切れないように」とか「年神に刃物を向けるのは良くない」といった理由を語ることもあったようです。
包丁など日常的につかう刃物がダメなら、当然「狩猟=殺傷」を目的とした道具である矢で射るのもダメでしょう。

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ここまで「弓矢」と「餅」について考察してきましたが、「鳥」については言及してきませんでした。

しかし「餅で鳥を作る儀礼」はあります。
千葉県柏市では「鳥ビシャ」、同県印西市では「鳥まち」などと呼ばれている儀礼です。

「鳥ビシャ」は基本正月の「オビシャ」儀礼なのですが、弓矢の儀礼に加えて新粉餅で作った鳥を木に止らせ飾るというもの。

「鳥まち」も「オビシャ」儀礼の一環のようですが、梅の枝を束ねた台座を作り、そこに新粉餅の鳥を挿した飾り物「ヤマ」を作ります。



大分カラフルなので「白鳥」とは言えませんが、確かに「餅=鳥」ではあります。
また動画中に「新粉餅で鳥を作ってすぐに目を入れると、晩の間に飛び去ってしまうので、鳥の目は翌日になってから書き入れる」という解説があります。「餅で作った鳥は飛び去る」可能性があるのです。

柳田はこの儀礼を知っていたかどうか?もし知っていたなら、「餅白鳥に化する話」で紹介したと思うのですが?
・・・いや、知っていたとしても敢えて紹介しなかった可能性もあるかもしれません。
「鳥ビシャ」も「鳥まち」も、オビシャ儀礼の一環でありながら、弓矢の儀礼とは明らかに別枠になっているからです。

この「鳥ビシャ」「鳥まち」の意味については現地ではどういう説明がなされているのか?わかりません。ネットで探しても公開されている論文等は見つけられなかったので。
まあ恐らくは「餅花」或は「繭玉」の変化したものなのだと思います。wiki「餅花」の説明では「一年の五穀豊穣を祈願する予祝の意味をもつ」とあります。
色鮮やかな羽を持つ新粉餅の鳥は「春の鳥」を現わしているわけですね。


以上、「餅を射る儀礼は存在したか?」について論じてきました。

話が彼方此方行ってしまいましたが、言いたいことは単純です。
・餅は「神への供物」であるので、それを弓矢で射ることは神に対する冒涜である。だから「餅を射る儀礼」は存在しない。

私は神話の良くわからないモチーフの意味を解釈する時は、そこに登場する事物の基本的な性質を重視すべきだと考えています。「空想の物語だから何でもありだ」とか「人の想像力は無限大」とかは、一人の人間が自分自身のために物語を作るなら可能かもしれませんが、多くの人々が共有している神話や伝説ではありえません。
まあ儀礼の象徴的解釈の場合は、神話伝説とはちょっと違うかもしれないので要注意ですが。

矢を射て吉凶を占う儀礼は弓矢の持つ「狩猟具」としての本質的な意味があってのことです。
「餅の的」説話は「弓矢を餅で射る」話なわけですが、それによって「餅」の福分を得ることはできません。餅とは人が神に捧げる「神への供物」なのですから、それを遊び半分で傷つけることになるからです。

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以上「餅を射る儀礼」は存在しなかった、という話をしてきましたが、何処かの遺跡で鏃の食い込んだ餅の化石とか出て来たら掌返すかもしれません。

一応、「餅を射る儀礼が存在するとしたら、その前提としてどのような信仰・観念が必要か?」というようなことも考えてはみましたが、だいぶ複雑な論理操作が必要になる気がします。

柳田は「奢りの沙汰なる故に、神の罰を受けたと云う説明は、的射の行事の至つて神秘なものであることを忘れてしまつた外国風の考へ方のやうにも感ぜられる」と言っていますが、「奢りによって神罰を受ける」と見たほうが普遍的且原初的な信仰のように思います。
逆に「至って神秘的なもの」の方が、論理化されて、意図的に神秘性を強調した、後世のものである可能性もあり得ますから。