『豊後国風土記』「速見郡田野」
田野在郡西南
此野広大 土地沃腴 開墾之便 無比此土 昔者 郡内百姓 
居此野 多開水田 余糧宿畝 大奢已富 作餅為的 
于時 餅化白鳥 発而南飛 当年之間 百姓死絶 
水田不造 遂以荒廃 自時以降 不宜水田 今謂田野
斯其縁也

『豊後国風土記』逸文
「餅の的(存疑)」
昔、豐後ノ國球珠ノ郡ニヒロキ野ノアル所ニ、大分ノ郡ニスム人、ソノ野ニキタリテ、家造リ、田耕リテ、スミケリ。アリツキテ家トミ、タノシカリケリ。酒ノミアソビケルニ、トリアヘズ弓ヲイケルニ、マトノナカリケルニヤ、餅ヲクヽリテ、的ニシテイケルホドニ、ソノ餅、白キ鳥ニナリテ飛ビサリニケリ。ソレヨリ後、次第ニオトロヘテ、マドヒウセニケリ。アトハムナシキ野ニナリタリケルヲ、天平年中ニ速見ノ郡ニスミケル訓迩ト云ケル人、サシモヨクニギハヒタリシ所ノアセニケルヲ、アタラシトヤ思ヒケン、又コヽニワタリテ田ヲツクリタリケルホドニ、ソノ苗ミナカレウセケレバ、オドロキオソレテ、又モツクラズステニケリト云ヘル事アリ。(『塵袋』第九)                                          

@@@@@

「餅の的」説話の諸相。二つ目は「不毛な土地の由来譚」です。

一つは『豊後国風土記』に載る、速見郡田野の事例。
もう一つは鎌倉時代中期頃成立と言われている『塵袋』に載る球珠郡=玖珠郡の事例です。

しかしこの二つの伝承、実は現在のどの場所に当っているのか、はっきりしません。
大分県には確かに「田野」という地名がありますが、現在のそれは速見郡ではなく、玖珠郡九重町にあります。速見郡と玖珠郡は東西に隣り合っていますから、元々その中間辺りを言っていた可能性もあるかもしれません。

そして玖珠郡九重町は、前回紹介した「朝日長者」伝承の故地に当ります。柳田によると、その「朝日長者」も「田野長者」と呼ぶことがあるようですから、玖珠郡田野の名称も古いはずですが。

ということで、豊後国「田野」の場所は定かでないですが、何となく「速見郡か玖珠郡か、その辺」ということで話を進めることにします。

因みに、Googleマップで「九重町田野」を検索すると「阿蘇くじゅう国立公園」の石碑が写り込んだ写真が出てきます。九重町南部飯田(はんだ)高原を南に行けば阿蘇山ですね。
その写真の感じでは、確かに森林地帯ではなく、平らな土地という感じはしますが、草が多く繁っていて、田を開こうとは思わないかなあ。近くに水路が引けそうな川も無さそうですし。

@@@@

『豊後国風土記』田野の事例を見ると、「長者」が登場していないことがわかります。
文中「百姓」とありますが、これは現代的な「農家」という意味ではなく、「民衆」「人々」「村人たち」的な意味の用法。

つまり「長者没落譚」ではありません。
「没落」という単語を敢えて使うなら、「村落の没落」とは言えますが、事例の結論は「田野」という地名起源ですから、「伝説的な村落の伝承」というわけでもありません。
やはり「田野」=「田のようだが、野である」という地名に込められた意味に従って、「不毛な土地の起源伝承」と読むのが良いと思います。

「余糧宿畝」とあります。
「余った食糧は刈り取らずに田の畝に残したままにしていた」という意味ですが、これは長者伝承よりも、その豊かさを強調した表現だと言えるでしょう。倉が一杯になっても尚有り余って、刈り取る必要すら感じない、というわけですから。

@@@

一方『塵袋』の事例は、長者伝承的な側面も持っています。
前段「大分郡の人が来て、家を立てて田を拓き、家が富み栄えた」とありますから。

しかし、その「大分郡の人」は「次第ニオトロヘテ、マドヒウセニケリ」、その家は衰えて、行方知れずになってしまったと言います。
そして後段では天平年間に速見郡の「クニ」という人が来て、かつての賑わいをもう一度と水田作りに挑戦していますが、苗は全て枯れてしまったと言います。

「大分郡の人」の家は栄えたとは言いますが、彼に対する関心は低いように感じられます。
やはり話のポイントとなっているのは、「不毛な土地」についてでしょう。

「大分郡の人」の開拓から天平年間まで、何年経ったのかは言及されていません。「速見郡の人クニ」はかつての賑わいを知っているようですから、何世代も前ということではないとも思えますが、「オドロキオソレテ」とあるのを見ると、「餅の的」事件の直後というわけでもないでしょう。

この「速見郡の人クニ」の復興失敗は、その土地の「不毛性」が非常に強いことを証明或再確認していることになるでしょう。

@@

「餅の的」説話が、「長者の驕りに対して天罰が下る話」だというなら、本来は「長者の没落」を語ればよいだけです。

しかし、今回取り上げた二つの事例では、「餅を的にした人の没落」に止まらず、そこの土地そのものも「不毛な土地」になってしまいます。

この「不毛な土地の由来」譚。
恐らく元々は『豊後国風土記』田野伝承のような「豊かさに驕った村落」の伝承であった可能性が高いと思います。村人全体に対する罰としてなら、その「村と田畑全体」が「不毛な土地」になってしまうという恐ろしい現象も相応しいように思うからです。

上でも言及しました『塵袋』事例は「不毛な土地の由来」譚でありつつ、「長者没落」の要素もある、中間的な事例のようにも見えます。
ただ後段に「不毛な土地の不毛性を再確認する」人物が登場することで、「餅を的にする」ということが、単純な個人の罪であるに止まらない、「豊かな土地を不毛な土地に変えてしまう」という非常に重大な罪であるということを強調している事例だとも言えるでしょう。



ここで「『餅の的』説話の原義」などということを言うなら、まあ資料の古さから言えば『豊後国風土記』事例のいう「不毛な土地の由来」の方が、「長者の没落」よりも古い可能性は高いようにも思います。

しかしそこを比較しようとすると、そもそも昔話伝説などに登場してくる「長者」なるものは、一体何者なのか?何時代のどんな地位の人々のことを言っているのか?
という根本的な問いが浮かび上がっています。

金持ちであり、ある程度は権力者のようでもあります。
しかし武士や貴族のようではない?中央から派遣された官僚、というのもちょっと違う?
僧侶や神主のような宗教性は?
…「『長者』とは何か?」というのは、面白そうなテーマではありますね。

一方で、伝説や昔話の研究・解釈からすると、漠然と「在地の有力者」ぐらいの認識でも良いのかもしれません。
しかし『豊後国風土記』の時代に、我々が考えるような「長者」が存在していたかというと、恐らくはないでしょう。

「風土記」の時代の「在地の有力者」というと、基本的には前時代「土蜘蛛」と呼ばれていたような人々か、律令制によって中央集権的政治階層に組み込まれた人々だった可能性が高いと思います。
そういう人々が個人として財力を得て、神罰も恐れぬほどに驕り高ぶるには、もう少し時代が下る必要があるようにも思いますね。