ピューマの話

昔、知本社よりバルフルと云う者、ピューマのパタバンの養子となりて赴き、「サパヤン」の姓を名乗りしが、其後「ララ」と改姓せり。其よりピューマにては常に知本社より養子を迎えしが、偶々プナリュ、エンピルの二人の養子を迎うるや、共に傑物にして社人は愚か恒春辺の人々も尊敬せしかば、何時しかピューマの名称四方に唱伝せらるるに至れり。

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原題通り「ピューマ」としていますが、現代表記では「プユマ」。
「卑南社」の現地名が「プユマ」です。

プユマ部落=卑南社の歴史伝承については以前「卑南社の起源」としてまとめました。



その卑南社内で、最も勢力の強い家系が「ララ家」ですが、その起源についても既に記事にしています。







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上に貼ったララ家に関する三つの記事の一つ目に知本社から婿入りした「カラピアト」とその系統について次のように書かれています。戦後ララ家から採集された伝承。

「KarapiatとVunglaiとの間にKaputayanと云う男児生れ、これがSapayan家に聟入りし、その子ValaurはRa’ra’家に聟入りした。」

それに対して、今回取り上げている伝承では以下のように言っています。

「知本社よりバルフルと云う者、ピューマのパタバンの養子となりて赴き、「サパヤン」の姓を名乗りしが、其後「ララ」と改姓せり。」

バルフルは「Valaur」の可能性がありますね。
また一旦「サパヤン家(姓)」になった後、ララ家になっている点も共通点。

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ただ今回の伝承=知本側の伝承では、知本からララ家への変遷はバルフル一代=一人の話になっています。
対してララ家側の伝承では「カラピアト」「カプタヤン」「ヴァラウル」という三世代の渡る話になっています。

台湾原住民の歴史伝承ではこの手の変化は良く見られるように思います。前回の記事で取り上げた知本社トコ系統の移住伝承も、一つの事例はトコ一代の話で、もう一つの事例はトコとその子孫の二代にわたる話になっていました。



何故そう言う伝承の食い違いが起こるのか?
何年何月という正確な時間が記録されていない「口承の時間軸」では、物事の前後関係や登場人物同士の関係性などでしか「時間的なモノ」を表せません。

しかしそこに話者の立場や考え方の違いが反映して、各事例に矛盾が生じる。
「時間的矛盾を認識する」機会や動機があれば整合性をとろうという方向性が生じるかもしれませんが、そうでなければ各事例は時間的矛盾を維持したまま伝承され続けていくことになります。

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知本側とプユマ社ララ家側のそれぞれの立場で伝承内容が異なるということなのだと思います。

まあ普通に考えるとプユマ社においては後発であり新興勢力であったララ家が、その勢力を伸長させた背景として「知本社との婚姻・親戚関係にある」ことを主張してきたという歴史があるのだと思います。

一方知本側では、ララ家との関係性やその隆盛は現実として認識しているものの、当事者ではないため、その過程の一部しか認識していないということなのだと思います。



後段に登場する「エンピル(エンビル)」については、知本側の別の伝承でも知本の勢力を広めた英雄的人物として言及されています。

『生蕃伝説集』に乗る知本社起源伝承によると、四方の強敵を征服し、租税徴収を始めたとあります。
その後卑南社に婿入りし、その子どもが知本に帰って来たといいます。

ただ今回の伝承の語り口では、エンピルはプユマ社に行って後活躍したかのような言われ方をしていて、印象が異なります。

歴史伝承については、プユマ社側には詳しい本があるのですが、知本側の資料はまとまったものが手元にないので、要確認ですね。